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♯9

初めて弾くバッハと、初めて弾くマーチ。

少しずつ前に進んでいく千鶴のコントラバスの練習の行く先で待っているものは……。

 翌日の放課後、空き教室で、凛々子(りりこ)千鶴(ちづる)の持参した「スプリング・グリーン・マーチ」のパート譜を改めて見直した。

 楽譜には行進曲の低音パートらしく、勇ましいステップを踏むような単純な伴奏のフレーズが並んでいる。初心者でも演奏に参加できるように書かれた曲なのは明らかだった。

「フラット一つのへ長調ね。音域も狭いし、これはすぐ弾けるようになるわ。じゃ、この曲の音階を弾いてみましょうか」

「はい。やってみます」

 凛々子に促されて、千鶴はマーチの楽譜に出てくる範囲だけ、コントラバスで音階を弾いた。

 前回のように凛々子の弾くヴァイオリンと合わせなくても、ゆっくりなら音階を上がって下がるだけなら問題なく弾けそうだった。

 マーチのパート譜もさほど難しくはなかった。前にやったような人差し指と中指と小指を等間隔に広げる左手の形を作れば何とかなりそうだった。

(あれ? 意外と弾けちゃう……?)

 千鶴は、予想外にスムーズに進む練習に驚いていた。

 マーチの曲の間、凛々子はヴァイオリンを出さずに時折「いち、に、さん、し」とカウントを取ってリズムを千鶴に確かめさせるだけで、時に何も指示を出さなかった。

 途中、「Trio」と表示のある、調号からフラットが消える部分で、弓で弾くアルコから弦を直接指ではじくピッツィカートに奏法が切り替わるところは千鶴は最初は少しもたついたり、弦を左手で押さえきれず雑音を立てたりしていたものの、すぐに慣れてしまっていた。

 ほぼリズム打ちだけのパート譜を千鶴がミスもなく通せるようになるまで、さして時間はかからなかった。あまりに単純な音の連続に、千鶴は「ふわぁ」とあくびを漏らしかけた。凛々子はそんな千鶴に「あらあら」と優しく微笑を向ける。

「やっぱり、手が大きいとコントラバスってスムーズに弾けるのね。こういう伴奏は、周りを見ながら弾けるぐらいの余裕があれば合奏は上手くいくわよ」

「そうなんですか?」

「ええ。それがコントラバスの仕事よ。じゃ、ちょっと休憩したら、前に渡した曲を二人で合わせてみましょうか」

 凛々子は艷やかな長い黒髪を掻き上げると、ワインレッドのヴァイオリンケースを開けた。


 休憩を挟んで、千鶴は凛々子のヴァイオリンに合わせて、ト長調の音階をコントラバスで復習した。昨日より少しだけ速いテンポで、よどみなく音階を往復できるのを確認すると、凛々子は千鶴に「じゃ、昨日のBWV147、一人でゆっくり弾いてみて」と告げた。

 千鶴は改めて「BWV147」の楽譜を見た。そこには、リズムだけなら単純な四分音符が並んでいるだけのように見えたが、まだ楽譜が覚束ない千鶴にも先程のマーチとは様子が違うように思えた。

 ともすると、同じ音の連続や一定のパターンの往復が多かった「スプリング・グリーン・マーチ」に比べると、音符が随分と自由に跳躍しているように見える。

 改めてコントラバスを構えると、千鶴は「BWV147」の楽譜を弾き始めた。意外にメロディックな低音が紡ぎ出されて、千鶴は(あれ?)と少しだけ驚いた。

 最初の数小節だけ、凛々子が柔らかなアルトの声で「いち、にい、さん」とゆっくりと三拍子をカウントしていく。その声は、細かなハミングに変わって千鶴がコントラバスで弾く四分音符の跳躍に、穏やかに絡みついていく。そのハミングは、音楽にまるで詳しくない千鶴にもどこかで聴き覚えがある旋律だった。

 凛々子は、曲がひと区切りついたところでハミングを止めた。

「江崎さん、そこまで。では、今度は私のヴァイオリンと合わせましょう」

 凛々子がヴァイオリンを構えて、調弦を軽く合わせると、「このテンポでいくわよ。まずは、最初の八小節だけ」と言いながら、ヴァイオリンの弓を大きめの三角形を描くように「いち、にい、さん」と振った。

 千鶴のコントラバスのゆっくりと歩むような四分音符に、凛々子のヴァイオリンの泉から湧いて流れるような三連符の旋律が、ヴェールを被せるようにまとわりついていく。その、二人が初めて組み上げた音の流れが、明らかに千鶴ですら聴いたことのある音楽を生み出していた。祈るような音楽が、コントラバスとヴァイオリンの二人だけで作り上げられて、千鶴は自分の音と重なり絡み合う凛々子の音の心地よさに、戸惑いつつついていった。

 遅いテンポとはいえ、たった八小節を弾いただけで千鶴は凛々子の音に、ヴァイオリンを弾く所作に、千鶴の弾くコントラバスに神経を集中している様子に、すっかり惹きつけられていた。

 指定の最初の八小節を弾き終えたところで、凛々子は一度演奏を止めた。驚いた様子の千鶴に、改めて凛々子は微笑みかけた。

「この曲、どこかで聴いたことがあるかしら。バッハ作曲の『主よ、人の望みの喜びよ』っていう曲よ」

「え!? バッハって、あの音楽の教科書とかに載ってる……?」

「そう。江崎さん、あなたが始めたコントラバスっていう楽器は、そういう音楽にも繋がっている楽器なの。それじゃ、今度は少しだけテンポを速くして、やってみましょうか」

 凛々子は、もう一度ヴァイオリンの弓を三角形を描くように、今度は少しだけ速度を上げて振った。

 千鶴は、凛々子のヴァイオリンを見ながら、バッハの音楽に入り込んでいった。


「小阪さん、さすが経験者だね。今度のマーチ、もう仕上がってるなんて凄いよ」

「コンクールの前に、まずは五月の本番ですしね。それに、この曲、一緒に部活に入った子と合奏前に合わせたいから」

 未乃梨(みのり)は、フルートパートで「スプリング・グリーン・マーチ」を合わせていた。

 フルートパートは女子ばかりで、どうしても肺活量は男子のいる他のパートに比べて色々考慮が要りそうだった。他にも初心者で入部したパートの一年生がまだ拭けない箇所を相談したり、「せっかくだから」と自分に任されたフルートソロを試し吹きしたりと、やることは沢山あったのだった。

「一緒に入った子って弦バスの江崎さんだっけ? あの子、身長高いカッコ良いよね。楽器を構えたら似合うしさ」

 パートリーダーの三年生にそう言われて、未乃梨は内心胸を張った。

「はい。合奏前に千鶴とも合わせてみたいなって」

「呼び捨てなんだ? 彼氏みたいだね」

「そういう訳じゃないですけど……」

 千鶴の話題が面映ゆい未乃梨の耳に、不意に遠くから響くマーチとは違う曲が微かに届いた。泉から湧いて流れるような聴き慣れない何かの楽器の旋律に、未乃梨は一瞬だけ気を取られた。

(あれ? これってバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」……? 誰が演奏してるんだろ?)

「それじゃ、もう一回パートで通してみようか。小阪さん、キューお願いね」

「あ、はーい」

 ほんの一瞬だけ自分の中に現れた疑問を一旦脇におくと、未乃梨はフルートを構え直した。


(続く)

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