♯85
連合演奏会の当日、運動部や中学時代の吹奏楽部とまるで違う雰囲気に呆気に取られる千鶴と未乃梨。
会場に向かうバスの中で、未乃梨はぼんやりと千鶴のことを考えてしまい……。
市の高校の吹奏楽部が共同開催する、春の連合演奏会の本番の日がやってきた。
その日は吹奏楽部員は部活による公休扱いで授業を休むことになり、その意味でも一部の吹奏楽部員はざわついていた。
千鶴は朝早めに登校して、大型楽器や打楽器のトラックへの積み込みを男子部員に混ざって手伝った。
作業は千鶴が来てから速く進んだ。三年生も含めて、男子ですら体格でも腕力でも千鶴にまさる部員は吹奏楽部にはいないようだった。
テューバの二年生の新木は汗を拭いながらひと息ついていた。
「江崎さんも手伝ってくれて助かったよ。さすが元運動部」
「そうでもないですよ。それに、手伝えることはやっときたいですし」
ブレザーを脱いで、ブラウスの袖をまくって積み込みをしていた千鶴は、トラックの荷台から制服のスカートが翻るのも気にせず飛び降りた。露わになるスカートの奥の黒いミニのスパッツから目を背けて立ち去る新木と入れ替わるように、未乃梨が千鶴のブレザーを手に駆け寄った。
「はい、上着。もう、スパッツ穿いてるからって無防備過ぎよ?」
「いいじゃん。誰かに見られるわけじゃなし」
「……せめて体育のハーフパンツにしてよ。スパッツじゃ線浮いちゃう」
「……え、ほんと?」
千鶴は慌ててスカートを手で押さえた。未乃梨は、先ほどから千鶴を視界に入れないように背を向けたり遠巻きに離れたりしている、困り顔の男子の吹奏楽部員たちを見回した。
「……千鶴、いい加減そういうのも気を付けてよ? 中学の頃じゃないんだからさ」
「『あさがお園』の子たちには男の人に間違えられちゃったけどねえ」
「とにかく。力仕事の時はスカートに気を付けてよ。千鶴もその……女の子なんだから、さ」
「うん。気をつけるよ」
言いづらそうな未乃梨に、千鶴も流石に神妙になった。
紫ヶ丘高校の吹奏楽部が乗り込んだバスは、市の郊外にある県立の文化ホールへと向けて国道を走っていた。
バスの中は、遠足にでも出かけるかのように和気あいあいとしていて、千鶴は面食らった。
「江崎さん、お菓子どうぞ」
バスの後ろの席に座っていたサックスパートの高森からチョコスナックの箱を差し出されて、千鶴は「あ、どうも」とキノコの形をしたそれをひとつつまんだ。
「何だか、部活の遠征なのに、凄い緩いですね?」
「当たり前じゃん。運動部の試合みたく勝ち負けをつけるやつじゃないんだしさ。ほらほら、小阪さんも」
高森は千鶴の隣に座る未乃梨にもお菓子をすすめていた。その高森の隣にいるユーフォニアムの植村に至っては、「ま、長旅だし」と炭酸飲料のペットボトルを開けて飲んでいた。
未乃梨は後ろの席から聞こえた「プシュッ」という炭酸ガスの音に思わず振り向いた。
「植村先輩、そんなんで楽器吹けるんですか?」
「大丈夫だって。どうせ紫ヶ丘の出番は午後からなんだしさ。ねえ、玲?」
「祐希の言う通り。無駄に緊張しても損だって」
飲み物や菓子類を口に運ぶ高森や植村に呆気に取られつつ、千鶴と未乃梨はバスの中を見回した。
運転席に近い顧問の子安は近くの席の部員と何やら談笑していて今日指揮をする人間とは思えないほどリラックスしていたし、バスの後ろの方に固まって座っている男子部員はトランプを車内に持ち込んでパートも学年も関係なく大騒ぎしていた。
例外はバスの中の雰囲気が我慢ならないといった様子で苦虫を噛み潰したような顔をしているテューバの蘇我だったが、忌々しそうに「全く、こんな調子で――」と何か言いかけたところで、通路を挟んだ席の他のパートの上級生の女子から「まあまあ、力抜きなよ。これ作ってきたから食べな」とボールドーナツを口の中に突っ込まれ、「……あ、おいひい」と見事に毒気を抜かれて黙らされる始末だった。
千鶴は、恐る恐る未乃梨を見た。
「……未乃梨、中学の吹奏楽部でも本番はこんな感じだったの?」
「もっとビシッと静かだったよ。移動中は私語厳禁だったし、お菓子の持ち込みとかもってのほかだったし」
未乃梨は呆れたように後ろの席を見た。車内のトイレに立って不在の植村の席の向こうから、一年生の男子のひそひそ声が漏れ聞こえていた。
「……なあ、吹部だと誰狙いよ?」
「……オレはオーボエの浦野先輩かな」
「……拙者はフルートの仲谷先輩でござる。昼休みの購買で眼鏡姿にときめいてしまったでござるよ」
「……眼鏡が好きなら蘇我行っとけっての。お前は?」
「……俺はあえて江崎を推すね。強き者は美しいのだよ諸君」
未乃梨が眉をひそめるより前に、トイレから出てきた植村が一年生の男子たちを一喝した。
「おい、お前ら。そういう話は夏合宿の夜にやれ。あと、その時はあたしも混ぜろよ。責任を持って女子全員に密告っといてやるからな」
周囲の上級生が全員、男子も女子も関係なくどっと笑い出した。未乃梨の隣で、千鶴も困ったように笑っていた。
その千鶴を横目で見ながら、未乃梨は小さく溜息をついた。
伸びた黒い千鶴の髪はそろそろリボンで結ったほうが収まりがいい長さになって、中学時代の少年めいた印象は影をひそめつつあった。ボタンを開けたブレザーの中のブラウスの胸元は千鶴の体格の割には控えめな盛り上がりだが、長い腕とスカートから伸びる長い脚や引き締まった腰周りと相まって未乃梨が羨んでしまうほどのシルエットを形作っている。
(私以外の誰かに、千鶴のことをそういう風に見られるの、ちょっと嫌だな)
治まる気配のないバスの喧騒の中で、未乃梨は高森に差し出されたポテトチップスを食べる千鶴の唇を見ながら、もう一度溜息をついた。
(続く)




