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♯82

凛々子からの誘いに尻込みしそうになりつつ、はっきりしない自分の気持ちを整理しようと考えてあぐねる千鶴。

千鶴とすれ違うことが増えそうで思い悩む未乃梨。

それぞれに戸惑い悩む二人。

 凛々子(りりこ)に上目遣いで見られて、千鶴(ちづる)は少しの間言葉を失った。

 自分の頬が帯びた熱を感じながら、千鶴はやっとのことで言葉を絞り出した。

「ど、どう演奏するかって……そんな、今の私にそういう意味の好きな人なんて――」

 そこまで言いかけて、千鶴は未乃梨(みのり)のことを思い浮かべた。と同時に、千鶴は「あさがお園」に訪問演奏に行った日の夜に見た夢を思い出した。

 その夢に現れて千鶴の手を取ったのは、紺色のステージ衣装に身を包んだ凛々子で、今ちょうど千鶴を上目遣いで見ているその人なのだった。

 千鶴は、染まった頬を更に赤くした。

「わ、私、そういうこと、まだ、わかんないですし!」

「別に、無理に理解しようとしなくていいのよ? そもそも『オンブラ・マイ・フ』は恋の歌ではないし、この曲をあなたが弾かなければいけない訳ではないもの」

 凛々子は更に、千鶴の側に一歩近寄った。緩くウェーブの掛かった長い黒髪が千鶴の手に触れそうな距離に迫って、微かに甘くまろやかな香りが千鶴の嗅覚を横切った。

「……もう。凛々子さん、からかわないで下さい」

 千鶴は凛々子から顔を背けようとして、それでも凛々子を見ずにはいられなかった。凛々子のいたずらっぽく微笑む表情は夢の中で見たのと同じで、そして現実で見る凛々子の微笑む顔は、千鶴が夢の中で気付かなかった色合いを含んでいた。

(凛々子さん、お姉さんみたいっていうか、先生みたいっていうか……そういえば、いつも練習で引っ張ってくれたし、今朝だって)

 朝の登校中に駅前で会った凛々子の手の感触と、夢の中で手を取ってきた凛々子の手の感触が千鶴の中で重なった。

 それに加えて、今まで自分の前でヴァイオリンを弾く凛々子の姿や、楽器については素人の千鶴の個人練習を見てくれたり、未乃梨との一件で悩んでいる千鶴に寄り添ってくれたりした凛々子の頼もしさや優しさも、千鶴の中に積もっていた。

 凛々子はもう一度、千鶴に微笑みかけた。

「ごめんなさい。気を悪くさせてしまったわね。そうだわ、ソロが無理でも、この前みたいに何人かで合わせるのならどうかしら?」

「何人かで合わせるって……発表会で、ですか?」

「ええ。発表会の出演者全員でね。勿論、智花(ともか)さんや私も、よ。気になる?」

 凛々子の表情から、いたずらっぽい軽さが消えた。

「私、ついていけそうでしょうか」

「不安なの? 昨日の本番、あなたは立派なコントラバス奏者だったわ」

 千鶴の自信なさげな表情を、凛々子はじっと見据えた。

「興味があるなら、……そうね、六月の最初の土曜日、空いてるかしら?」

「土日はコンクールメンバーの練習だけだから……多分」

「その日、私の入っているユースオーケストラの練習があるのだけれど、その後で秋の発表会の打ち合わせもあるの。良かったら、見学に来るのはどうかしら?」

「……いいんですか? 私、部外者ですけど」

 遠慮がちな千鶴の手を、凛々子は勇気づけるように取った。

「あなたなら大歓迎よ。昨日の『あさがお園』の演奏みたいに、きっと上手くいくわ」

 凛々子に手を取られて、千鶴は拒めなかった。むしろ、凛々子に手を取られることを、千鶴はどこかで望んでいたようにさえ思えた。

 千鶴は未乃梨に告白されたときに、返事を返せなかった理由が見えた気がした。

(未乃梨のことも凛々子さんのことも「好き」、だけど……それぞれ違う「好き」なんだろうか)

 千鶴は、改めて凛々子の顔を見返した。

「……ご迷惑じゃなければ」

「わかったわ。決まりね」

 凛々子は千鶴の手を取ったまま、頷いた。



 フルートパートの個人練習で、未乃梨は、改めて「ドリー組曲」のピアノのための楽譜をフルートで吹きながら、溜息をついた。どうにも、高校に入ってから溜息ばかりついているように、未乃梨には思えてきた。

Berceuse(ベルスーズ)」と題された最初の曲はどこまでも優しげで、この曲の伴奏にはコントラバス奏者がいてほしい気持ちが未乃梨の中で少し大きくなっていた。

(これ、「子守り歌」って意味だっけ。……赤ちゃんが寝てくれそうに吹くって、どうすればいいんだろう)

 未乃梨は、もう一度「Berceuse」を吹いてみた。今度は、この場にいない千鶴の弾くコントラバスの音を想像しながら吹いてみた。ふと、未乃梨の中であり得ないヴィジョンが浮かんだ。

(千鶴って、『あさがお園』で小さい子たちに好かれてたよね。千鶴なら、分かる……のかな)

 フルートを持ったまま考え込んだ未乃梨を、仲谷(なかたに)が後ろから声を掛けた。

「おーい。そろそろ部活終わるよー」

 未乃梨は唇からフルートを離すと、空き教室の壁の時計を見上げた。中学時代ならあと一時間は練習出来ていたところをこの高校の部活では練習時間は早く切り上げなければならないのが、未乃梨にはちょっぴり不満だった。

(……長時間練習すればいいってものじゃないのは、分かってるけど)

 未乃梨は、スマホに入っているカレンダーを見直した。コンクールメンバーだけの練習は、やはり土日に集中していた。そんな日は決まって、千鶴を含めた楽器が未経験で入部した一年生が休みなのだった。

(千鶴と会う機会、これから減っちゃうのかな)

 未乃梨の気持ちは、しばらく晴れそうになかった。


(続く)


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