♯8
家族と、凛々子と、未乃梨と。
千鶴にとってはそれぞれに大事で。
そして未乃梨とは中学以上に距離が近付きそうで――。
その晩の江崎家の食卓は、千鶴が始めた部活の話題でで持ち切りだった。
千鶴の父は味噌汁の椀を持ったまま「え? 吹奏楽部?」とやや間の抜けた声を上げた。
「お前が文化部ねえ。てっきりまたバスケットやらバレーやらやるもんだと思っとったが」
「いいんじゃない? 音楽の部活なんてちょっとは女の子らしいじゃない。で、もうパートは決まったの?」
母に問われて、千鶴は素っ気なく答えた。
「コントラバス。ヴァイオリンの大きいやつ」
「凄いのやることになったのね。未乃梨ちゃんも一緒?」
「うん。初日に誘われて、一緒に吹部に入ることになったの」
「あら。でも、未乃梨ちゃんと一緒なら楽しそうね」
千鶴の入部の経緯を聞いて微笑む母に、父は怪訝な顔をした。
「未乃梨? 誰だいそりゃ」
「千鶴と同じ中学だった子よ。ほら、その子が部活で遅くなったときに千鶴がおうちまで送ってあげたっていう。割と近くに住んでるのよね」
「そんなことがあったかねえ。まあ、千鶴が一緒なら夜道も安心か」
「千鶴が男の子だったら、あんな可愛らしい子が彼女ならお似合いかしらねえ?」
食べ終えて湯呑みにお茶を注ぎながら、母は千鶴を肘で小突いた。
「ちょっと、もう、母さんったら変なこと言わないでよ。未乃梨はそんなんじゃなくて」
慌てて恥ずかしがる千鶴に、父は湯呑みを啜ると娘をなだめた。
「まあまあ、お前は父さんや達哉より背も高いし力も男の子並みにあるんだ、友達を送るぐらいはしてやってもいいわな」
「分かってるよ。そういえば、達にぃって夏休みに帰って来るんだっけ?」
兄の名前を聞いて、思い出したように千鶴が母に尋ねた。
うーん、と母はちょっと残念そうな顔をした。
「工学部でもう大学三年でしょう? 忙しくて無理ってメールあったわ。千鶴に高校入学おめでとうって伝えて、って言ってたし、後で電話かメールでもしてあげてね」
風呂から上がって自室に引っ込むと千鶴はスマホを見て吹き出しそうになった。兄の達哉からのメッセージで、大学の実習室で撮ったらしい動画が添付されている。白衣を着た兄や同級生らしい男子学生たちが数人、「千鶴ちゃん高校入学おめでとう」と書かれた横断幕のようなものを手に踊っている。よく聞くと、「よーし、実験終わったら江崎んちで飲もうぜ!」などという随分勝手な声も入っていた。
千鶴は机の上の家族旅行の写真を見た。確か中学一年の夏休みで、その頃には千鶴の身長は父を追い越して、兄の達哉と並んでいたのだった。
(達にぃ、また千鶴がでかくなったって驚くかなあ……あ、そうだ)
千鶴は、スマホを手にしながらふと思い付いたことがあった。メッセージのアプリを立ち上げて、「仙道凛々子」という名前の番号を呼び出した。
――仙道先輩、さっそく相談、いいでしょうか
程なくして、返信があった。
――今晩は。どうしたの?
――部活で今度やる曲があって、これも明日見てもらえますか?
――大丈夫よ。楽譜、画像に撮って送ってちょうだい
千鶴は、部活で受け取った「スプリング・グリーン・マーチ」をスマホのカメラで撮ると、凛々子に送った。少し間が空いて、凛々子の返事が届いた。
――単純な楽譜だし、明日やってみましょう。譜読みの勉強には丁度いいわ
――ありがとうございます
ふう、と安心した千鶴に、今度は未乃梨からメッセージが届いた。
――帰り、送ってくれてありがとね。お父さんとお母さんがまた今度遊びにおいで、だって
――わかった。でも私服でスカート持ってないし、また未乃梨のお父さんをびっくりさせちゃうかも
――そうなの? 千鶴スタイルいいし、何でも似合いそうなのに
――チノパンとか達にぃのお下がりのデニムばっかりだよ
――そうなんだ。じゃあ、スカート買いに行かなきゃね。こういうのとかどう?
未乃梨から、通販サイトから引っ張ってきたらしい画像が届いた。千鶴のようなショートボブの女性のモデルが夏物のスカートやワンピースを着た画像が数枚、メッセージに添付されている。
続いてもう一通、メッセージが届いた。
――良かったら、今度の土曜か日曜に服とか一緒に見に行かない? 受験も終わったし、久し振りに千鶴と遊びに行きたいな。どうかな?
なんとなく、千鶴にはそのメッセージの文章が、未乃梨の声で頭の中に再生されたような気がした。上目遣いの未乃梨の顔が、手に取るように想像できた。
――いいよ。また明日の朝にでも相談しよっか
――おっけー。じゃ、また明日ね。おやすみ
最後の返信には、リボンをほどいて髪を下ろした部屋着姿の未乃梨の画像が添付されていた。袖の二の腕の部分が膨らんでいる、アンダーバストをリボンで絞ったピンクベージュのルームウェアが可愛らしく似合っている。
下ろすとストレートなのがよく分かる、未乃梨のやや明るめのセミロングの髪に見入りつつ、千鶴は一瞬凛々子の緩いウェーブの掛かった長い黒髪を思い出した。
(別に、楽器を教わってるだけの関係だし、未乃梨に隠れて変なことしてるわけじゃないし……)
千鶴は何故か急に気まずくなって、慌てるように返信をした。
――おやすみ。今日もらったマーチの曲も、しっかり練習しとくね
(続く)