♯78
帰宅してから、自室の本棚にある楽譜を見てとある思いを馳せる凛々子。
一方で、千鶴は初めての本番でしっかり疲れてしまったようで……!?
「あさがお園」の演奏から帰宅すると、凛々子は自室に早々に引っ込んだ。ケースに仕舞ったヴァイオリンを置いて、部屋着に着替えた凛々子の目に、本棚の楽譜類が収まっている段のとある場所が目に留まった。
凛々子が今までにヴァイオリンやピアノのレッスンで弾いたいくつかのメソッドなどの大判で薄いものや、ヴァイオリンの独奏や室内楽で弾いた少し厚いものの隣にある、オーケストラの本番で弾いたことのある曲や個人的に好きで聴いている曲のフルスコアが並ぶ場所を、凛々子は改めて眺めた。棚の途中の、一冊分抜けている場所に入っていたシューベルトの「グレート」は机の上にしばらく出したままで、時折ユースオーケストラの練習にヴァイオリンケースに入れて持っていくこともあった。
「グレート」のフルスコアが収まっていた場所のすぐ近くの、「Beethoven」の名前が記されたいくつかのフルスコアのうち、最も厚くて一番端に収まっているものを、凛々子は取り出した。背表紙と表紙には「Sinfonie Nr.9 d―moll op.125」とあった。
(『第九』、ね。このスコア、星の宮のユースでやることなんてなさそうなのに、買っちゃったのよね)
凛々子はそのスコアを取り出すと、流し読みを始めた。
第一楽章の和音の性格すら定かではない、無機質で不気味ですらある開始と、その直後の決然とした主題。第二楽章の冒頭の怒号のような全ての弦楽器によるオクターブの下降跳躍と、そこから続く随所にティンパニが連打される激しいスケルツォ。第三楽章の、安らぎと静けさに満ちた、長大でアダージョ・モルト(甚だ緩やかに)と指定を記された変奏曲。いつしか、凛々子はスコアの最下段に置かれた、ヘ音記号のパートを目で追っていた。
最後の楽章で、凛々子は先の三つの楽章の回想とそれを打ち消すような低音部の旋律の部分を過ぎて、とある部分にたどり着いた。
(92小節め……Allegro assai、非常に快活に……)
その場所は、学校の空き教室で智花のチェロの見様見真似で千鶴がコントラバスで弾いて、今日の楽器紹介でも千鶴が弾いた「歓喜の主題」と呼ばれる箇所だった。
(Fis……Fis……G……A……A……G……Fis……E……)
凛々子はスコアから目が離せなくなっていた。長身の千鶴がオーケストラの演奏会の衣装に身を包んで、並みいるコントラバス奏者の群れに混ざってベートーヴェンの「歓喜の主題」を弾いている姿が、あまりに鮮やかに想像できた。その姿は、少なくともユースオーケストラにいる少年少女たちの誰よりも、頼もしげで力強いものだと、凛々子は確信できそうだった。
しかし、凛々子はそこではたと空想の歩みを止めた。
(でも……千鶴さんが「第九」の演奏に参加するとき、私はヴァイオリンの席に居合わせているかしら)
それでも、どこかのオーケストラでコントラバスを弾いている千鶴の姿が凛々子の脳裏から消え去ってしまうことはなかった。
(私が、そこに千鶴さんを連れていくことが出来たら……?)
凛々子は再び思いを巡らせた。思いは今度は想像や空想ではなく、思考の形を取っていた。その思考は、凛々子がいくら重ねても、飽きることがないように思われた。
その日の夜、千鶴はベッドに入るとぐっすりと眠りについた。
「あさがお園」の演奏から帰宅してそこでのことを両親に話して「お前が発表会みたいに楽器を披露か。中学までとは大違いだなあ」と驚かせたり、浴槽に入っている間に「あさがお園」で演奏した四曲を鼻歌で歌って「千鶴、あんまり長湯しないで」と浴室の外から母親のたしなめる声が聞こえたり、といつも通りの晩ではあった。
千鶴が渋々風呂を出て自室に引っ込むと、ベッドに腰掛けた途端に身体から力が抜けていった。
(あれ? 私、疲れてる、のかな)
確かに、千鶴の中に疲労は蓄積していた。中学時代によその運動部の助っ人に行ったときとは質の違う、頭のてっぺんから足の爪先までうっすらと覆うような疲れが千鶴につきまとっている。
(うーん……こりゃもう寝ないとダメ、かな)
千鶴はゆっくりとベッドに横になった。全身をうっすらと覆っている疲労は、横になるといっそ心地良かった。その疲労が千鶴を入眠させるまで、時間はさほどかからなかった。
千鶴は、奇妙な夢を見た。
どこかで合奏の練習があって千鶴もそれに参加しているらしく、コントラバスを手に大きな部屋で千鶴は立っていた。
周りにいる顔触れに、千鶴は全く覚えがなかった。妙に思って周囲を何度も見回す千鶴に、手を振る者があった。
千鶴の少し前でチェロを抱えて椅子に座る智花と、そこから更に離れた場所にいて顎にヴィオラを挟んでいる眼鏡にお下げの少女は瑞香に間違いなかった。
ふと、千鶴は誰かに手を取られたことに気付いた。コントラバスの弓を手にした千鶴の手を取ったのは、ヴァイオリンとその弓を左手に抱えて紺色のステージ衣装のドレスを着た、緩くウェーブの掛かった艷やかな長い黒髪の少女の右手だった。
千鶴は言葉も出せないほど驚いた。千鶴の手を取ったのは、間違いなく凛々子だった。
凛々子は無言でいたずらっぽく微笑むと、千鶴の手をそっと離して智花や瑞香より更に離れた場所の、指揮台の隣に集まっているヴァイオリンを手にした人の群れの先頭の席に座ってから、もう一度千鶴の顔を見て微笑んだ。
他に知る顔のない場所で、コントラバスを手にしている違和感に千鶴が気付いた辺りで、その情景はゆっくりと消えていく。いつしか、千鶴は一段深い眠りに引き込まれていた。
翌朝、千鶴は目を覚ましてから、あることに気付いた。
(変な夢だったなあ……にしても、何で未乃梨だけ出てこなかったんだろう……?)
(続く)




