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♯77

「あさがお園」の演奏で、千鶴が残した印象はあまりに大きくて。

今後の千鶴のことで、ある可能性に気付いた未乃梨は……。

 凛々子(りりこ)と別れてから、駅のホームでも電車の中でも、千鶴(ちづる)未乃梨(みのり)にずっと手をつながれたままだった。

 電車の中で未乃梨は手すりにつかまると、夕暮れに色付き始めた窓の外を見ながら、吊り革を握っていない方の千鶴の腕に身体をそっと預けた。

「ねえ、千鶴。……今日は、お疲れ様」

「未乃梨も。『G線上のアリア』と楽器紹介の『メヌエット』、素敵だったよ」

「千鶴も。バックの伴奏、ありがとね。あと、楽器紹介の『第九』、何か、凄かった」

 未乃梨は電車の窓の外から視線を外すと、千鶴の顔を見上げた。

「ねえ、千鶴。……凛々子さんが言ってたことだけど」

「ああ、六月のオーケストラの演奏会? 一緒に行く?」

「それじゃなくて、秋の本番のほう。……一緒に、出ない?」

「大丈夫なの? 未乃梨、ピアノも練習しなきゃいけないでしょ」

「ちょっと頑張れば間に合う、かな」

 千鶴は、少し心配そうに未乃梨を見た。

「五月に連合演奏会で、未乃梨はコンクールもあるじゃない。いいの?」

「いいの。……私、もっと千鶴と一緒にいたい」

 未乃梨は目を伏せて、電車の窓の外にもう一度視線をやった。目を伏せる前に、未乃梨の瞳が濡れたように光っているのが、千鶴から見えた。

「……うん。よろしくね」

 千鶴は、そう答えることしかできなかった。


 最寄り駅に着いてから改札を出ると、未乃梨はずっとつないでいた千鶴の手をそっと離した。

「千鶴。また、明日ね」

 そう言って手を振る、夕暮れの中の未乃梨の声も表情も、明るかった。その明るさの向こうに、未乃梨の精いっぱいの何かが込められているようで、千鶴には少し引っかかっていた。



 智花(ともか)の運転するライトグリーンの軽自動車の助手席で、瑞香(みずか)は頬杖をつきながら少し開けた窓から入る風に吹かれていた。

「瑞香、今日の本番お疲れ様。コンバスを返すのに付き合わせちゃったけど、良かった? もう高三でしょ」

「大丈夫。うちのオケの倉庫まで近いし、今の成績なら推薦で大丈夫っぽいし。後は六月の本番だけだもんね」

「頼もしいね。大学に行ってもヴィオラは続けるんでしょ?」

「そのつもり。時々星の宮ユースにも、弾きに行くわ」

「そういえば、さ。今日の千鶴ちゃんと未乃梨ちゃん、凄かったね」

 いくつか信号を過ぎた辺りで話題を変えた智花に、瑞香は「そうね」と素っ気なく答えた。

「経験のある未乃梨さんはともかく、千鶴さんは思ってたのと違ってた、かな」

「あら、手厳しいんだ?」

「そういう意味じゃなくて。……何ていうか、千鶴さんってもう一人前のコントラバス弾きさんだった。ユースの子のコンバスの誰かと一緒にステージで弾いてるのと、同じ感覚だったわ」

「千鶴ちゃん、初めて一ヶ月だっけ。それで今日の出来だもんね」

「正直ね、千鶴さん、うちのヴィオラパートの後ろにチェロと一緒にいそうって、思っちゃうぐらいだったのよ。まだ、細かいところは色々覚束ないけど」

「ふふ。そうなったらうちの中低弦、賑やかになりそうね」

 瑞香は助手席の後ろを見た。後部座席を倒してケースに収まったヴィオラとチェロだけが載った軽自動車の後ろ半分は、がらんどうに見えた。

 軽自動車は信号を曲がると、大通りを外れた。少し暗い道を、智花はゆっくりと運転した。

 交差点をふたつほど越えたところで、瑞香が「ここでいいわ」と智花に車を止めさせた。

「送ってくれて、ありがと」

 瑞香はシートベルトを外すと、眼鏡を取って運転席の智花に身を乗り出した。唇が一度智花の左頬に触れて、二度目は智花の唇の端に触れた。

「瑞香。続きは、大学に合格するまで、お預けだからね?」

「分かってる。それじゃ、ユースの練習で、ね」

 瑞香はもう一度、智花に顔を寄せた。三度目は、二人の唇はそっと重なった。

「……もう。気をつけて帰るんだよ」

「うん。それじゃ」

 瑞香は車を降りると、ヴィオラケースを担ぎ直した。

 夕闇の中を走っていくライトグリーンの軽自動車を、瑞香は随分長く見送っていた。



 その日の夜、自室のベッドの中に入った未乃梨は、ふと千鶴が弾くコントラバスの音をいくつも思い返していた。

 何度も一緒に合わせたパッヘルベルの「カノン」や、「G線上のアリア」や「主よ、人の望みの喜びよ」でアンサンブルを支えた千鶴のコントラバスは、どの曲でも楽器始めて一ヶ月程度にしては見事だった。そのどれよりも、未乃梨の印象に残ったものがあった。

(千鶴が弾いた「第九」……あんなに惹きつけられる演奏を、千鶴がするなんて)

 未乃梨は千鶴が楽器紹介で「第九」の一節を弾いているときに、自分がフルートを持った左手で胸元を押さえて、右手で口元を覆ったのを思い出していた。その時の自分の顔も、うっすらと熱を帯びていたように思われた。

(凛々子さん、また千鶴の練習に付き合うって言ってたっけ……まさか)

 未乃梨の脳裏に、ふとどこかの演奏会の舞台に立つ千鶴の姿が思い浮かんだ。

 高校の吹奏楽部の本番ではない、どこかのオーケストラの演奏会で大勢の弦楽器奏者の後ろに陣取るコントラバスセクションの中で、大きな楽器をあの長身に立て掛けて悠然と構える千鶴の姿は、あまりに想像が容易かった。そのヴァイオリンのどこかの席に、凛々子がいることも含めて。

(凛々子さん、まさか、千鶴を……?)

 未乃梨は、まだ点けたままの照明の下で、ベッドに横たわったまま、両手で顔を覆った。


(続く)

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