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♯74

「あさがお園」の本番で曲の間に挟まれた楽器紹介。

ひとりでコントラバスを弾かなければならない千鶴の緊張は嫌がおうにも高まって……?

 凛々子(りりこ)は未乃梨が受けた園の子供たちの拍手が止むと、もう一度子供たちを見回した。

「それでは、今日、皆さんのためにあさがお園に演奏に来てくれたお姉さんたちを紹介します。まずは、さっきの『G線上のアリア』で主役だったフルートの小阪未乃梨(こさかみのり)さん。せっかくなので、フルートで何か吹いてくださる?」

「あ、はい。では」

 未乃梨はフルートを構えた。千鶴(ちづる)にも聴き覚えのある、ゆったりした三拍子の旋律が八小節、未乃梨のフルートから円を描いて踊るように流れていく。

「ありがとうございます。未乃梨さん、今の曲の紹介をお願いします」

「『アルルの女』の『メヌエット』、っていいます。ゆっくりとしたダンスの曲で、フルートの曲では有名なうちのひとつ、かな」

 やや緊張気味な様子の未乃梨の演奏は、それでも見事だった。再び、未乃梨は子供たちから拍手を受けた。

 千鶴もコントラバスを身体に立て掛けたまま未乃梨に小さく拍手をしつつ、内心冷や汗をかいていた。

(ええっと……これ、私もやらなきゃいけないんだよね?)

 千鶴の緊張をよそに、楽器紹介はつつがなく進んだ。

 元はロシアの民謡だという、凛々子がヴァイオリンで弾く語りかけるような旋律の「アンダンテ・カンタービレ」。

 学校の練習でも聴いた、瑞香(みずか)がヴィオラで弾く作曲者が妻に捧げた曲だという優しさに溢れる「愛の挨拶」。

 湖水に浮かんで静々と泳ぐ水鳥の姿が目に浮かぶような、智花(ともか)がチェロで弾く優雅極まる「白鳥」。

 それぞれがあまりに見事で、千鶴の中で緊張は高まっていった。

(……やっぱり、みんな上手いよね……。楽器を始めて今日で一ヶ月の私と全然違う)

 楽器紹介がひとつ進むごとに、千鶴の緊張も強まっていた。

「それでは、ヴァイオリンから始まって少しずつ大きな楽器を紹介してもらったわけですが。最後に、一番大きくて一番音の低い楽器を紹介します。コントラバスの江崎(えざき)千鶴さんです」

 名前を呼ばれて、コントラバスを支えたままややぎこちなくお辞儀をした千鶴に、「さっきのおっきいおねーさんだー!」という声がして、子供たちがどよめいた。

(やっぱり、こんな大きい楽器って、あんまり間近で見ないもんなあ……ひえぇ)

 子供たちの前でやや怯んでいる千鶴に、凛々子が歩み寄ってきた。

「コントラバスって、こんなに大きいけど実は素敵な楽器なんですよ。今日は千鶴お姉さんに、あのベートーヴェンの曲を弾いてもらいます」

 凛々子の紹介に、座っている男の子の誰かが「だだだ、だーん、でしょ?」とおどけて、子供たちが笑い出した。その笑い声に紛れて、凛々子が千鶴に小声で伝えた。

「それじゃ、『第九』、お願いしますね」

 子供たちの笑い声を受けて、むしろ千鶴の緊張は舞った埃が吹き飛ぶように消え去っていた。

(前に、智花さんのチェロの見様見真似で弾いた時は上手くいったんだ、今度だって……!)

 千鶴はコントラバスを構え直すと、短く、しかし深く息を吸い込んだ。

 弓がゆっくりと動いて、この場にあるどの弦楽器よりも長くて太いコントラバスの弦を震わせて、小学校の教室よりも広い食堂の空気を穏やかで力強い響きで満たした。千鶴の弦を押さえる左手も弓を持つ右手も、危なげないどころかどこまでも自然に動いて、単純な音の連なりから信じがたい力強さを生み出した。

(デー)…………(エー)……Fis(フィス)……、E……D……)

 最後のコントラバスのDの開放弦にたどり着く何小節も前に、子供たちのどよめきはすっかり鎮まって、千鶴がコントラバスで弾いているベートーヴェンの「第九」に聴き入っていた。千鶴は、自分が弾いているコントラバスの音が、弓が弦から離れてもずっと響き続けていそうな錯覚にとらわれつつ、最後のDの音を弾ききった。

 コントラバスの残響が止むと同時に、子供たちの大きな拍手が巻き起こった。凛々子が再び千鶴の弾いた曲を紹介した。

「千鶴お姉さんのコントラバスで、ベートーヴェン作曲の『歓喜の歌』でした!」

 凛々子の声に、千鶴はふと我に返った。

 すぐ隣で、智花がチェロを抱えたまま満足そうに拍手代わりに弓で譜面を軽く叩いていた。その隣の瑞香がヴィオラを小脇に抱えて目を見開いていた。

 凛々子は自分の立ち位置に戻りながら、ヴァイオリンを手にしたまま納得したように口角を上げていた。演奏者の中で千鶴から一番遠い未乃梨は、左手でフルートを胸元に持ったまま、右手で口元を覆って頬を僅かに紅潮させていた。

「すげー!」「でっかいおねーさん、かっけー!」という声に、千鶴は思わず子供たちの顔を見た。食堂に床に座って聴いていた子供たちの顔は、確かに輝いていた。

(良かった。この子たち、ちゃんと聴いてくれたんだ)

 千鶴は改めて、コントラバスを支えたまま子供たちに向かって深々と一礼した。



 子供たちの拍手が止んでから、凛々子が告げた。

「それでは、最後の曲になりました。さっきの『G線上のアリア』のバッハの作曲で、『主よ、人の望みの喜びよ』です」

 凛々子がヴァイオリンを構えて、瑞香もヴィオラを、智花もチェロを構えた。少しおいて、未乃梨がフルートを構えて凛々子とアイコンタクトを取っていた。

 千鶴も、弓を持ち直すとコントラバスを構えて、短く、しかし深く息を吸った。


(続く) 

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