♯71
そしてやって来た養護施設「あさがお園」での本番の日。
演奏が始まる前から、千鶴には思いがけないことばかりで……。
養護施設「あさがお園」での本番の前日、千鶴は頭を少々悩ませていた。
机の上には高校の吹奏楽部から借り出したコントラバスの弓が入った黒く細長いケースと松脂と当日に持っていく楽譜があり、持っていくものといえば後は財布とスマホぐらいのものだった。
(持ち物はともかく……何を着ていけばいいんだ?)
凛々子からスマホに送ってもらったメッセージには、「演奏しやすい服装でOK」とだけ書かれていた。
(凛々子さんとか、未乃梨とかはどんな格好で来るのかなあ)
悩んだところで、千鶴のクローゼットの中には選択肢はほとんどなかった。そもそも千鶴は、制服以外のスカートは高校に入学してすぐに未乃梨と買いに行ったブルーのレイヤードスカートぐらいしかないのだった。当日の服装を未乃梨に相談しようと思っても、千鶴には以前のように未乃梨に気安くメッセージを送るのははばかられていた。
未乃梨とは、当日は平日の登校と同じようにいつもの最寄り駅で十二時に待ち合わせるとだけメッセージで約束していた。
(未乃梨に告白の返事を待ってもらってるのに、無闇にメッセージを送っちゃっていいのかなあ。……そういうのって、未乃梨が困るんじゃないだろうか)
千鶴はクローゼットの前で腕組みをしたまま、「うーん」と唸ると再び考え込んでしまった。
翌朝、千鶴は結局Tシャツにいつもの水色のフーディを羽織ることにした。ボトムスは散々悩んで、ブラックデニムのクロップドパンツを選んだ。
千鶴の母は、「その格好で行くの?」と不思議そうな顔をした。
「こないだ買ってきた可愛いスカートあったじゃない。あれ、穿いていかないの?」
「……今日はパンツの気分なの。それに、これも一応レディースだよ?」
「まるで男の子ねえ。あんた、やっぱり髪を伸ばしなさいな」
千鶴の穿いているブラックデニムのパンツはTシャツやフーディと合わせるとどうにもボーイッシュに決まってしまっていた。リボンで結った伸びかけの髪ですら、活発さが勝ってしまって余計に長身の千鶴を少年めいて見せていた。
最寄り駅で、千鶴は弓ケースや楽譜の入ったトートバッグを肩から提げながら、スマホを鏡代わりにして前髪を直していた。未乃梨はまだ来ていないようだった。
(前に一緒に遊びに行ったとき、未乃梨もこんな風に待ってたのかな)
千鶴は取り留めのないことを考えながら、スマホの時計を見た。時刻は十一時四十七分を表示していた。
不意に背後から、千鶴を呼ぶ声がした。
「千鶴。待った?」
振り向くと、肩からフルートのケースと小さめのバッグを提げて、半袖のスタンドカラーのシャツに膝丈より少し長い薄緑色のジャンパースカートを着た未乃梨が立っていた。足元のヒールのあるサンダルは千鶴にも見覚えがあり、未乃梨が気に入っている様子を感じさせた。
「あ、未乃梨。今日の服、可愛いね」
千鶴はそう言って、すぐに少し後悔した。未乃梨からの告白に返事を待ってもらっている状態で、その言葉選びは的外れなように思えた。
未乃梨は屈託もなく笑った。
「これ、お気に入りなの。どう、かな」
上目遣いになる未乃梨に、千鶴は少し戸惑った。未乃梨の服装は、明らかに千鶴を意識していた。
「すごく、似合ってるよ」
「……ふふ。嬉しいな。千鶴も、今日は格好いいよ」
少し恥ずかしそうな未乃梨は、やはり千鶴をそういう目で見ていた。
「ねえ、千鶴。手、久し振りにつないでいいかな」
ためらいがちな未乃梨を、千鶴は断ることができなかった。
高校の校門前では、いつものワインレッドのヴァイオリンケースを肩から提げた凛々子が先に待っていた。
紺色で半袖の足首まで隠れるワンピースにハイカットブーツを合わせた、落ち着いた服装が凛々子によく似合っている。緩くウェーブの掛かった長い黒髪も、バレッタで一部をまとめて大人びた雰囲気が強まっていた。未乃梨が、いつの間にか千鶴の手を離していた。
「あ、凛々子さん。お待たせしました。」
「私もいま来たところよ。お二人とも、そろそろ行きましょうか」
千鶴と未乃梨は、凛々子について歩いた。凛々子は未乃梨を振り返った。
「未乃梨さん、そのジャンパースカート、可愛いわね? 私もそういうコーデ、試そうかしら」
「……凛々子さん、ガーリーなの好きなんですか?」
「私だって女の子ですもの。でも、結局は長いスカートとかワンピースばっかりになっちゃうのよね。パンツルックもあまり穿かないし」
凛々子は千鶴を見やってから、マキシ丈のワンピースをつまんだ。
年相応に可愛らしいコーデの未乃梨と十代にしては大人びた装いの凛々子に挟まれて歩きながら、千鶴はクロップドパンツを穿いてきたことに妙な気恥ずかしさを感じていた。
「……私もスカートで来れば良かったかなあ」
「あら、千鶴さんもその黒のデニム、可愛いわよ。むしろ、背が高いからこそできるコーデじゃない?」
千鶴は、凛々子から「可愛い」と言われて意表を突かれたように感じた。
(凛々子さんには私のこと、そう見えるの? 身長なんかクラスの男子全員より高いのに?)
隣で歩く未乃梨の眉が、一瞬ぴくりと動いた気がして、千鶴の中で気まずい思いが波紋を浮かべた。
そんなことを話すうちに、三人はバスの停留所ひとつ分ほど歩いていた。
「見えてきたわ。今日の本番の場所よ」
凛々子が指す方向に、「児童養護施設 あさがお園」という古びた看板が掛かった、緑が鮮やかな生け垣が見えてきた。
(続く)




