♯7
凛々子の課題と部活の曲。ヴァイオリンとフルート。
千鶴がつい思い浮かべてしまう年上の少女のことは、まだまだ未乃梨には言えないようで……。
「それじゃ、何か聞きたいことがあったらいつでも私のスマホにメッセージ送って。いつでも相談に乗るわ」
凛々子は千鶴にそう言い残すと、艷やかな長い黒髪を翻して空き教室を立ち去った。ふわりと香る微かな髪の香りが、何故か千鶴に未乃梨が体育の授業のあとで使っていた制汗スプレーの甘酸っぱい香りを思い起こさせた。
そろそろ部活が終わる時間が近づいていた。方々から聴こえていた管楽器の音が少しずつ止んでいく。基本の伸ばしや音階をやる中に、何かの楽器が、遊んでいるような軽快な曲を吹いているのも聴こえている。フルートとピアノの音も、音楽室からまだ聴こえていた。
ケースに仕舞ったコントラバスと弓を返しに音楽室に向かおうとする千鶴がクラリネットパートが練習している教室の前を通り掛かった時、中からメッシュの入った短い非対称のボブの髪の上級生が呼び止めた。
「あ、丁度よかったよ。江崎さん、ちょっといい?」
「ええっと……高森先輩でしたっけ、何でしょうか?」
教室から出てきた高森は「これこれ」と言いながら、楽譜を一枚千鶴に手渡した。
「五月の終わりに市内の吹部が集まって演奏する本番があって、それにうちの部も出るんだけど、パート譜を渡そうと思って」
パート譜には、「スプリング・グリーン・マーチ」と片仮名のタイトルが書かれていて、楽譜の左肩に見出しのように書いてある「String bass」はコントラバスのことだろうか。
「これも、個人練習でやる感じですか?」
「そうだね。私もクラとサックス両方の新入生の面倒を見なきゃいけなくなっちゃった上に今月ジャズ研のライブもあってあまり面倒見てあげられないんだけど、ごめんね」
高森は千鶴に頭を下げると、空き教室に戻っていった。
千鶴はそのマーチの楽譜と、先ほど凛々子から受け取った「BWV147」と番号の書かれた楽譜を見比べて、途方に暮れた。
(仙道って先輩、これも教えてくれるのかなあ)
帰りの電車の中で、未乃梨は「ねえ千鶴、聞いてよ」と不満そうな顔をした。
「どうしたの?」
「子安先生がさ、今年は初心者も多いからまずはみんなで楽器を楽しんで吹くところから始めましょうだって」
子安の名前を聞いて、千鶴は初めて音楽室に行った時にいた一見冴えない中年の男性教師を思い出した。
「そうなんだ。何かいけないの?」
「コンクールも大事だけど、経験者も初心者も今は楽しんで演奏できるようになるのが目的です、って言っててさ。あーあ、今年の夏も県大会に出たいって思ってたのに」
「未乃梨、中学でも遅くまで頑張ってたもんね」
「クラリネットパートなんか、サックスパートと一緒にごちゃ混ぜで遊んでて、高森っていう先輩なんかずーっとジャズばっかり吹いてたらしいし」
音楽室に戻る途中に聴こえた軽快な曲は、高森が吹いていたらしい。特徴的な髪型やピアスの彼女ならやりそうだと、千鶴は直感した。
「ま、まあ……。中学の女バスだって、スリーオンスリーで遊びながらディフェンスの練習してたし、似たようなものじゃない?」
「遊びながら練習かぁ……。あ、そうだ」
未乃梨は何かを思い付いた顔をした。
「マーチの楽譜、もらったでしょ? 千鶴は個人練習なんだし、出来上がったら二人で合わせてみない?」
「いいの? フルートパートも練習あるでしょ?」
「部活の時間じゃなくて、朝とかお昼休みに音楽室でやるの。弦バスも持ち出さなくていいし」
「朝練かあ。なんか、運動部みたいだね」
「何言ってるの。中学で部員でもないのに朝練に参加したことあるくせに。女バレに助っ人に行った時とかさ」
未乃梨は、上目遣いで千鶴の顔を見上げた。未乃梨の笑顔やむくれ顔は中学で何度も見た千鶴だったが、近付いて上目遣いで自分を見上げる未乃梨の顔は格別に可愛らしく見えてしまう。
「分かったよ。ちゃんと弾けるようになったら、ね」
千鶴は未乃梨をなだめながら、もう一人「一緒に合わせる」ことを約束した少女のことを思い出していた。
(仙道先輩に練習を見てもらってるとこを未乃梨に見られたら、どうなるだろうなあ……)
そんな物思いは、目尻が少し吊り上がった未乃梨の視線で断ち切られた。
「あ、千鶴ったら、今別の女の子のこと考えてたでしょ?」
「ち、違うよ」
「サックスの高森先輩? もしかして、女バレの結城さん?」
「違うってば。信じてよ」
「いいよ、信じたげる。その代わり」
未乃梨は笑顔になってから、千鶴に身体を寄せた。上目遣いで、千鶴の左腕に自分の両腕を絡ませている。
「私の家の近くまで送って。だめ?」
「いいけど……どうして?」
「……だって、折角高校も部活も一緒なのに、あんまり一緒にいられないじゃない。クラスの席も離れてるし、合奏練習でもなきゃ千鶴とは離れ離れだし」
「いいよ。……だから、駅に着くまでは、ちょっと離れて、ね?」
電車の中で千鶴の腕に取り付く未乃梨は、他の乗客から時折ちらちらと見られていた。未乃梨は顔を赤くして千鶴から離れて、それでも未乃梨の小さな手は千鶴の手を握ったままだった。
(続く)