♯67
手洗いで出くわした植村に勇気付けられる未乃梨、未乃梨の表情が明るくなって安堵する千鶴。凛々子も交えた三重奏は更に充実していって……。
植村は、完全に未乃梨の反応を面白がっていた。
「ごめんごめん。小阪さん、なんか沈んでる感じだったから、つい」
「もう。植村先輩、変なこと言わないでください」
未乃梨は植村が上級生ということも忘れかけて、目尻を上げた。
「しっかし、さっきの小阪さん、可愛かったよ。そういう顔の小阪さんを、周りの人も見たいんじゃないかな」
未乃梨は今度は顔を赤らめた。未乃梨の目尻は元に戻っていた。
「そんな……考えたこともなかったっていうか」
「不機嫌で周りを動かすより、上機嫌で周りを動かす方がずっといい、ってね」
未乃梨の隣の鏡で前髪を直し始めた植村に、いつの間にか未乃梨の顔はほころんでいた。
手洗いから戻ってきてフルートのチューニングを確かめる未乃梨に、千鶴は少し安堵した。未乃梨の表情から、暗い影が消えていた。
凛々子のヴァイオリンや千鶴のコントラバスの調弦のためにAの音をチューナーを見ながら吹く時も、未乃梨は千鶴や凛々子の方をきちんと向いていた。
(よかった。未乃梨、元気になったみたい。……元気をなくした原因は私にあるようなものだけど)
そのまま、「主よ、人の望みの喜びよ」の合わせが始まった。
千鶴のコントラバスは軽快さを増していた。テンポは以前よりまた僅かに速くなって、この曲に隠れていた踊るような性格がはっきりと現れていた。
三拍子の軸になる、上下に動き回る四分音符の低音を弾く千鶴のコントラバスと、泉が湧き出るような三連符の旋律を弾く凛々子のヴァイオリンと、二分音符と四分音符で伸びやかに歌う未乃梨のフルートが重なる箇所では、欠けているパートがあるにも関わらずそれぞれが自分の演奏するパートを見失わないどころか、それぞれが主役のように振る舞って演奏できていた。
コントラバスを始めて間がない千鶴も、リズムだけ見れば単純極まる「主よ人の望みの喜びよ」の低音の譜面を、自分でも信じられないほど楽しみながら弾いていた。
「主よ、人の望みの喜びよ」はそのまま終止符へとたどり着いた。凛々子は顎に挟んでいたヴァイオリンを離すと、千鶴と未乃梨に満足そうな笑顔を向けた。
「二人とも良かったわよ。あとは、全員の合わせができれば本番も安心だわ」
「確か、来週でしたっけ?」
表情から翳りの取れた未乃梨が、譜面に書き込みをしながら言った。
「ええ。前回の合わせも良い出来だったし、瑞香さんと智花さんも楽しみにしているわ」
凛々子は、弓を緩めながら未乃梨を見た。明らかに、未乃梨の表情はどこかしら明るかった。
「未乃梨、頑張らなきゃね?」
「……うん!」
コントラバスを身体に立てかけて弓を少し締め直す千鶴に、未乃梨はややはにかんだように、元気に答えた。
「あ、いたいた。ちょっとお邪魔しまーす」
三人が入っていた空き教室に、凛々子と同じ赤いリボンの、ワンレングスボブの上級生が入ってきた。
「あ、仲谷先輩。お疲れ様です」
未乃梨はフルートを持ったままそのワンレングスボブの少女に一礼した。仲谷は千鶴と凛々子に「あ、フルートの二年の仲谷です」と会釈してから未乃梨に向き直る。
「小阪さんコンクールメンバーだよね? 部活終わってからちょっと音楽室に残ってね。細かい練習日程とか渡すから」
「練習日程っていうと?」
「詳しいことは後で説明するけど、コンクールメンバーだけ土曜か日曜に学校で練習あるんだ。それだけ、宜しくね。あと」
仲谷は千鶴と凛々子を見回すと、茶目っ気のある様子で片目をつむった。
「小阪さん、ヴァイオリンとか弦バスと合わせてるの聴こえてたけど、良かったよ!」
「あ、ありがとうございます」
「今度、部活外で本番やってくるんだっけ? 頑張ってね。お二人とも、うちのパート員を宜しくお願いします」
仲谷は未乃梨を労ってから千鶴と凛々子に一礼すると、空き教室を出ていった。
「さっきの未乃梨さんの先輩にも言われたけど、良い本番にしましょうね。そろそろ、片付けましょうか」
凛々子は教室の時計を見上げた。そろそろ、部活動が終わる時間だった。
音楽室にコントラバスを返却すると、千鶴は音楽室の戸口で待っていた凛々子と昇降口ヘと向かった。
「未乃梨、ちょっと元気なさそうだったけど、後半から元に戻ってくれて、良かったです」
「あら、よく見てるのね。流石は大親友、ってとこかしら?」
凛々子は自分より顔ひとつ分は背の高い千鶴を見上げた。
「えっと……まあ。ちょっと表情暗かったし、どうしたのかなって思って」
千鶴は思わず凛々子からあらぬ方向へと顔を背けた。
「千鶴さん、あなた、モテそうね?」
くすくすと笑う凛々子に、千尋は伸びかけのボブの髪のリボンで結んだ根元辺りを掻いた。
「そんなことは……ないと思いますけど」
「あーっ、千鶴っちじゃん。今帰り?」
「そっちの美人さん誰? カノジョさん?」
唐突に名前を呼ばれて、千鶴は「え?」と狼狽えて、凛々子は「まあ」と微笑んだ。千鶴に声を掛けてきたのは、クラスメイトの結城志之だった。志之は同じバレー部員らしき少女たち数人と一緒だった。
「これから帰るところだけど……凛々子さんは、カノジョとかじゃないよ」
志之の隣にいる、千鶴ほどではないが背の高いミディアムヘアの女子が「えーっ」と声を上げた。
「確か一組の仙道先輩ですよね? 志之、江崎さんと仙道先輩、めっちゃお似合いだよね?」
「ホントだ。女子同士でここまでベストカップルっていなくない?」
「あ、あの、ちょっと」
はしゃぎ出したバレー部員の女子たちや、側でにこにこ微笑んでいる凛々子に、千鶴はたじろいだ。
ふと、校門に面した二階の窓がからりと開いて、セミロングの髪をリボンでハーフアップに結ったよく知る姿が廊下からひょっこりと顔を覗かせた。
「千鶴ーっ! 用事終わったからそのまま待ってて!」
すっかり明るくなった未乃梨の声と、周りのバレー部の女子たちのどよめきと、凛々子のくすくす笑う声に囲まれて、千鶴は冷や汗が止まらなかった。
(続く)




