♯63
千鶴への想いを割り切れないまま、それでもどこか安堵して千鶴と一緒に登校する未乃梨。
朝の練習では、千鶴のコントラバスに凛々子のヴァイオリンの影を感じた未乃梨は……。
次の日、千鶴は最寄りの駅で未乃梨を待った。
未乃梨は思っていたより早く、今度はいつも通りにセミロングの色素の薄い髪をリボンでハーフアップにまとめて、息を切らせて走ってやってきた。
「千鶴、おはよう。……昨日の夜、電話させちゃって、ごめんね」
「ううん、気にしないで。それじゃ、行こっか」
「……うん」
未乃梨は頷いて、千鶴の後に続いて歩いた。ふと、千鶴が振り向いた。
「今日は、いいの?」
「いいの、って……何が?」
「手。つながなくて、いいのかなって」
千鶴が屈託のない笑顔で、未乃梨に右手を差し出していた。
「いいの? でも、私……」
「友達同士で手をつないだりとか、わりと普通じゃない?」
「……それじゃ」
未乃梨はおずおずと、千鶴の右手に自分の左手を預けた。男子より大きくて、そのくせ指がしなやかに長くてどこか女の子らしくもある千鶴の手が、未乃梨の小さな手を柔らかに受け止めた。
駅のホームで電車を待つ間、未乃梨は千鶴と手をつないだままホームのベンチに座ると、千鶴の右腕に身体を寄せた。未乃梨よりより少しばかり高い千鶴の体温が伝わってきて、未乃梨をまどろみに誘いかけた。
「未乃梨。寝ちゃダメだよ」
「……あっ、ごめん」
「もう、無防備なんだから」
気が付くと、いつも乗っている電車がもうすぐホームに来る時間だった。千鶴に手を引かれて、未乃梨は電車に乗り込んだ。
まだ早い時間で空いている電車に乗り込むと、千鶴は立ったままつないだ手を離して、未乃梨を座らせた。
「未乃梨、眠れてないの?」
「ううん、そうじゃないんだけど……千鶴と手をつないでたら、何か安心しちゃって」
「しょうがないね。じゃ、お隣に失礼して」
千鶴は未乃梨の左隣に座った。未乃梨の視界に、千鶴の伸びかけのボブの髪を結んだリボンが目に入った。今日のリボンは紺色で、未乃梨が以前あげたものとは別だった。
「あれ? そんなリボン、持ってたの?」
「ああ、これね。うちの母さんから何個か貰ったんだ。このリボンだけじゃ髪がまとまらないから、ゴムの上から結んでるだけなんだけど」
紺色のリボンと千鶴の元々しっかり黒い髪に紛れて、焦げ茶色のヘアゴムがショートテイルの髪の根元をしっかり束ねていた。
「最近、母さんからちょっとは髪型で遊ぶことくらい覚えてもいいわね、って言われちゃってさ。似合うかな」
千鶴は、左右のもみ上げと襟足を少し残してショートテイルを結んでいた。いつもより大人びて見える髪のまとめ方に、未乃梨はふと、この場にいない凛々子を思い浮かべた。
「……千鶴、伸ばすならどれぐらい? 背中までいっちゃう?」
「ちょっと迷ってるかな。最低でも未乃梨ぐらいまで伸ばしてみたいかな、って」
「そう、なんだ」
未乃梨は、色づいた頬を隠すように、電車の窓の外に目を向けた。
音楽室に着くと、千鶴はコントラバスを出してから何やら身体を解すような、スポーツの前の準備体操よりはやや軽いストレッチに似たことをしていた。
両手を組んでから両腕を頭上に上げて、左右にゆっくりと少し倒しながら身体をほぐす千鶴を、フルートの準備をしていた未乃梨は不思議そうに見ていた。
「千鶴、それ、何してるの?」
「ああ、これね。ヴァイオリン体操。昨日、凛々子さんに教わったんだ。身体のメンテも練習のうちだから、って」
(ヴァイオリン体操……そう、だよね。弦楽器やってる人からしか教えてもらえないこと、あるもんね)
未乃梨は少しの間、無言で頷くことしかできなかった。
楽器の準備を終えると、千鶴と未乃梨は「G線上のアリア」を合わせてみた。
いつものように本来ならチェロと重なる自分のパートをピッツィカートで弾いていた千鶴は、未乃梨のフルートの音ではたと気付いたことがあった。
(未乃梨の音、すごく綺麗に揺れ動いてる? 確か、凛々子さんもヴァイオリンで似たようなこと、やってなかったっけ? ……確か、凛々子さん、左手を揺らしてたような?)
いつも通りの繊細さで未乃梨のフルートを支えている千鶴のコントラバスのピッツィカートに、変化が現れた。
未乃梨は、千鶴のピッツィカートの余韻がいつもより自分の音とよく馴染んでいるように思えた。
(あれ? 千鶴の音、こんなに私の音に混ざりやすかったっけ?)
よく見ると、コントラバスの弦を押さえている千鶴の左手は、右手が弦をはじいた直後にゆっくりと微かに揺らいでいた。コントラバスのピッツィカートに薄くヴィブラートが掛かって、未乃梨の吹く旋律を更に映えさせるように彩りを添えている。その弾き方は、凛々子がヴァイオリンを弾く時の左手とどこか似ていた。
(千鶴の向こうに、千鶴の中に、凛々子さんがいる……ってこと?)
千鶴がコントラバスのピッツィカートで弾く「G線上のアリア」の低音は、今までで一番出来がいいと言えるほどのものだった。それだけに、未乃梨は目の前の千鶴のコントラバスに、嫉妬に似た思いが生まれそうになっていた。
(そんな……!? 千鶴、コントラバスを始めたばっかりなのに!? ここまで演奏できるようになったのは、やっぱり凛々子さんに教わったからなの!? そんな!?)
それでも、未乃梨のフルートは乱れなかった。繰り返しで、いつもより多く装飾音を追加して、「G線上のアリア」の祈るような旋律に、花に落ちて散った水滴ような瑞々しい装飾を、済んだ音で連ねていく。
(千鶴、私のことも見てよ……お願い)
未乃梨の思いをよそに、「G線上のアリア」が最後の小節線にたどり着いた。
「今日の未乃梨、凄いね! 繰り返しのところ、すっごく綺麗だったよ!」
その千鶴の言葉が、針先のように未乃梨の心をつついていた。
(続く)




