♯62
一方で、未乃梨も昼休みの千鶴とのことを考えあぐねていた。
乱れて鎮まらない未乃梨は、スマホで撮った千鶴を見返すうちに……。
帰宅してからも、未乃梨はどこか落ち着いていられなかった。
夕飯の前に入浴しても、こんがらがった気持ちは流れてはくれなかった。浴槽に浸かっても、髪や身体を洗って泡をシャワーで流しても、未乃梨の気持ちは晴れないままだった。
脱衣所で髪をドライヤーで乾かす間は更に辛い気持ちが湧いてきてしまっていた。千鶴に抱きついた時、そのリボンで結った伸びかけのボブの髪に触れたことを、未乃梨はまざまざと思い出した。
(千鶴の髪、黒くて私より固くて真っ直ぐで……伸ばしたら、綺麗なストレートロングになるんだろうな)
未乃梨は、髪が伸びた千鶴を思い浮かべて、それを打ち消した。同じように長い、緩くウェーブの掛かった黒髪の人物が隣に立っているところが未乃梨には容易に想像できてしまっていた。
(どうして、凛々子さんのことが……? 千鶴が今より可愛くなったり、綺麗になったりしたら、凛々子さんとか、他の誰かに取られちゃうかもしれない……の?)
未乃梨の胸の奥は、風呂から上がっても乱れたままだった。
好物のクリームコロッケが出た夕飯で未乃梨の箸が進まないことに、未乃梨の母は「あら」と目を丸くした。
「珍しいわね? クリームコロッケ残すなんて」
「あ、うん。ご馳走様」
食欲がわかない様子の未乃梨に、父親がコロッケの残った皿を自分に引き寄せた。
「どうした未乃梨? ……まさか、恋患いか?」
「違うよ。クリームコロッケあげるから変なこと言わないで」
「あなた。デリカシー無さすぎよ」
「す、すまん」
母親にたしなめられて縮こまって謝罪する父親を後に、食卓を離れて自分の食器を台所の流しに置くと、未乃梨は自室に引っ込んだ。
未乃梨はベッドに倒れ込むように横になると、天井を見上げて深く溜め息をついた。
(今日、言っちゃった……千鶴に、好きだって、千鶴のカノジョになりたい、って)
その千鶴から拒絶されなかったことだけは、せめてもの救いだった。未乃梨は、ベッドに置いたクッションを抱え込んで顔を埋めた。
(千鶴……「考える時間が、ほしい」って、どうしてそんなに優しいの? そういうの、断られるより、辛いよ)
千鶴の最近伸びかけてきたボブの髪も、並の男子よりずっと高い身長も、何度もつないだその大きな手も、自分に見せた笑顔や慌てた顔も。
そして、高校で一緒に吹奏楽部に入った千鶴が始めたコントラバスの、穏やかで柔らかな音も、一緒に演奏した時に見せた、ブレスの合図に見せた小さく息を吸う仕草も。
未乃梨には、千鶴のすべてがいっそ愛おしかった。
(私のことは好きだって言ってくれたけど、……千鶴のその「好き」は私の「好き」とはいつか違っちゃうかもしれないってこと? そんなの、不安に決まってるじゃない)
未乃梨は、枕元に放り出してあったスマホを見た。今までなら、当たり前のように千鶴にメッセージを送ったり、寝る前の寝間着姿を見せたりしていたのが、今夜はそれがはばかられた。
スマホの画像フォルダを開くと、未乃梨は千鶴が写っているものをひたすら見返した。
中学時代にスマホを買ってもらってすぐの頃に初めて撮った、セーラー服姿の千鶴。体育祭のジャージに短パンの千鶴。高校に上がってから、初めてコントラバスを手にした千鶴。一緒に遊びに出かけた時に買った、レイヤードスカートを穿いた千鶴。そして、自分がねだって向こうから送られてきた、寝る前の黒いキャミソールに青いシャツを羽織った姿の千鶴。最後の二枚は、今の未乃梨には少しだけ正視するのがためらわれた。
(私、前から格好いい千鶴が好きで、高校に上がってから可愛くなってく千鶴も好きで、ずっと優しい千鶴のことが大好きで……)
未乃梨はスマホの画像フォルダを閉じた。そのまま待ち受けに戻ると、メッセージアプリのアイコンに触れそうになって、慌てて親指を引っ込めそうになって、結局メッセージの受信箱を開いた。
(さすがにまだ起きてるだろうけど……昼間にあんなこと千鶴にしちゃって、帰りに「考える時間が、ほしい」って言われたばっかりなのに……私、何してるんだろう。今、メッセージ貰ったって、千鶴、困っちゃうよね)
一件だけ残っていた作成中のメッセージは、宛先が千鶴になっていた。そこには、「千鶴、ちょっといい?」と一行だけの書きかけの本文が残っている。
(でも、今までみたいに千鶴と話したい。少なくとも、千鶴に嫌われたわけじゃないんだし。でも……あっ)
未乃梨は、アプリを閉じようとして、その書きかけのメッセージの送信のアイコンに指が触れてしまっていた。慌てて取り消そうにも、既に送信されてしまい、十秒ほどして送信したその短いメッセージには既読のサインが付いていた。
「えっ……ちょっと?」
未乃梨は思わず小さく声を上げた。
気まずい思いを抱えながら、未乃梨はスマホの画面を見つめた。十秒、二十秒と時間が経って、未乃梨は先程と全く違うことを考えていた。
(千鶴、今の無視して……! お願い、どうか忘れて!)
それから五秒ほど経って、未乃梨のスマホが着信を告げた。かけてきた相手の番号を見て、未乃梨はベッドから飛び上がるように身体を起こした。
相手は、千鶴だった。未乃梨は少しだけ震える手で着信を取った。
「もしもし――」
『あ、未乃梨。起きてた? メッセージ届いてて、昼間のこともあったし、どうしたのかな、って気になっちゃって』
千鶴の声は穏やかだった。今までと変わらない、いつもの千鶴の声が未乃梨の中にすっと染み込んで、泡立つように落ち着かない未乃梨を落ち着かせた。
「あの……ごめんね、こんな時間に。メッセージ、用もないのに送っちゃって――」
『ううん、気にしないで。こっちも夜に電話しちゃってるし』
「いいの。私こそ、本当にごめんね」
『よかった。それじゃ、また明日ね。一緒に音楽室行く?』
「あ……うん。じゃ、早めに駅で待ってるね」
『おっけ。それじゃ未乃梨、おやすみなさい』
「うん。……おやすみ」
一分にも満たない通話が終わって、未乃梨はもう一度、今度はゆっくりとベッドに倒れ込んだ。
(今夜、また眠れなくなっちゃうかも。……また寝坊して、髪をちゃんとセット出来なかったら、嫌だな)
未乃梨は、かなり遅い時間まで、胡乱なことを考えあぐねていた。
(続く)




