♯59
様子のおかしい千鶴を見かねて、身体の様子をみて緊張を解させる凛々子。
その千鶴の小さなトラブルの原因は……。
「はい、一、二、三、四」
凛々子の聞き慣れないカウントに面食らいながら、千鶴は両手を組んでから両腕を頭上に上げて、左右にゆっくりと少し倒して身体をほぐした。ほぐしたというより、少し気持ちが良くなる方向に筋肉を伸ばしたといった方が正しかった。
「運動する時のストレッチみたいにたくさん伸ばさなくていいわ。ほんの少し、腱や筋肉を伸ばすだけでいいの」
凛々子の指示はあまりに簡単なものだった。聞き慣れないカウントに、千鶴は少し怪訝な顔をした。
「あの、アインス、とか何とかって、一体何なんですか?」
「ドイツ語の数の呼び方よ。もう高校生なんだし、英語以外の外国語も少しは知っていてもいいわね」
「英語以外って――」
奇妙に思った千鶴に、凛々子はまるで普通のことのように答えた。
「そうよ。コントラバスだってドイツ語だし、音楽以外だとズボンはフランス語でパンはポルトガル語、メモ書きのメモは元をたどればラテン語よ。そういうことも、どこかで意識しておくと授業だって楽しくなるわ」
凛々子は音楽以外にも物知りのようだった。千鶴はそんな凛々子の話に聞き入りながら、身体をゆっくりと左右に交代で少しずつ動かした。
千鶴の身体は、凛々子に教わった通りに動かすたびに、首から肩にかけての不快なこわばりが少しずつ消えていった。中学の運動部の助っ人のときに教わったストレッチとはまるで異なる効き方をしているのか、顔の火照りもいつしかすっきりと失せていた。
「あれ? なんか、身体が元に戻ってる?」
千鶴は改めて肩や腕や首を回してみた。これなら、先程のようにコントラバスの調弦ですら手間取ることもなさそうだった。昼休みに未乃梨に抱きつかれて以来、胸の奥に残っている小さな鼓動はまだ残っていたが、それでも苦しくなるほどではなさそうだった。
「今日はそれで終わりにしましょう。身体のメンテも練習のうちだし、心理的なストレスが身体のトラブルにつながることもあるのよ」
「心理的な、って……」
その凛々子の言葉に、千鶴は言葉を詰まらせた。思い詰めたような未乃梨の表情や、未乃梨の髪の甘酸っぱい香りや、思わず支えた軽く柔らかな未乃梨の身体の感触が千鶴の頭の中に浮かんでは消えた。
「そう。今日のあなたの不調、どうしてそうなったのかは知らないけど……あら」
凛々子は、急に空き教室の戸口を見た。そこには、たまたま通りかかったらしい高森がいた。
「どうも。何かカウントみたいなのを取ってる声がしたからさ、ちょっと覗き見しちゃった」
凛々子はくすりと小さく笑った。
「高森さんもやってみる? 今やってたヴァイオリン体操、管楽器奏者にも役に立つわよ」
「また今度じっくり頼むね。にしても、最近仙道さんって江崎さんの指導、部員でもないのに悪いね」
高森に言われて、凛々子は「別に構わないわよ?」と千鶴を見た。
「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり、だもの。ちょっと教えただけでもう合奏についていけるようになったのは、驚いたけど」
凛々子の裏のない微笑に、千鶴は昼休みに未乃梨に抱きつかれる前に凛々子とのことを少しだけ考えてしまったことを、思い出していた。
(凛々子さんは、どうして私にこんなに良くしてくれるんだろう……)
そんな思いをすぐに引っ込めて、千鶴は凛々子と高森に笑ってみせた。
「凛々子さん教わったお陰で、コントラバスを弾くのが楽しくて、上手く行ってるっていうか。あんまり上手にまとまってないですけど」
確かに、千鶴は凛々子に教わるようになってから、コントラバスを弾くことがどこか綺麗に身体に馴染んでいた。凛々子たちとの合わせや部活の合奏も、自分なりに考えて弾けるように既になっていて、音楽を引っ張っていくことはいつの間にか楽しくなっていた。
「小阪さんも嬉しいだろうね。仲良しの江崎さんを部活に誘ったら、ここまで上達してるんだし。……おっと」
高森は空き教室の壁の時計を見た。部活の時間がもう半分ほど過ぎていた。
「ジャズ研に顔出して寄り道してたらこんなこんな時間だ。二人とも、邪魔してごめんね」
「いえ。お疲れ様でした」
手を振って空き教室から出ていく高森を見送る千鶴の中に、やはり未乃梨との一件は少しだけ重く残っていた。
高森が出ていってから、千鶴は凛々子に呼ばれた。
「ところで。千鶴さん、今日はどうしたの。調弦だけで手間取っていたようだけど」
「えっと、……その……」
「無理に、とは言わないけれど。私で役に立てるなら、お話を聞かせて下さってもいいかしら?」
「実は、その……」
「うん?」
「昼休みに、……クラスの子に、……告白されました」
千鶴は、絞り出すように言葉を選んだ。
(続く)




