♯55
珍しく未乃梨とは別の朝の登校と、いつもより大幅に早く始まった音楽室での朝練。
低音セクションだけでの吹奏楽部の練習は、意外な事態に陥って……?
いつも千鶴が未乃梨と来る時間より三十分あまり早い時間の音楽室には、既に何人か吹奏楽部の部員が集まっていた。千鶴は音楽室の戸口から挨拶をした。
「おはようございます」
「お、来たね。時間ないし準備しちゃって」
そう言って千鶴に手を上げて応えた高森は普段吹いているアルトサックスより何倍も大きそうなバリトンサックスを準備して音出しをしていたし、銀色のユーフォニアムを傍らに置いて、スコアを見ながらピアノで「スプリング・グリーン・マーチ」を弾いて和音を確かめていた植村も、千鶴に気付くと「おはよう。宜しく頼むわ」と挨拶を返してきた。
コントラバスを出してきた千鶴に、テューバの新木が手を上げた。
「江崎さん、朝早くから悪いね。授業が始まる十分前までには終わるから」
「いえいえ。こちらこそ、お願いします」
千鶴は音楽室の入り口に目をやった。眼鏡にベリーショートの髪の蘇我が仏頂面で入ってきて、コントラバスの音出しをしている千鶴を見て不機嫌そうに溜め息をついた。
その蘇我が、急に顔をこわばらせた。
「おはよう、蘇我さん」
ピアノに向かっていた植村が、座ったまま音楽室の入口を向いて蘇我に声を掛けていた。
蘇我は返事もせずに隣の音楽準備室にテューバを取りに入ろうとして、バリトンサックスの音出しをしていた高森に呼び止められた。
「蘇我さん、祐希に挨拶されたら返事ぐらいしたら?」
蘇我は無言で振り返ると、何も言わずに音楽準備室に引っ込もうとした。
「他人の行動には散々口を挟んどいて、自分は挨拶もできないのかな」
ピアノの椅子から立ち上がった植村が、蘇我の背中に声を投げかけた。蘇我は打ち据えられたように動きを止めた。
「……おはようございます」
蘇我はぼそりと気のない返事をして、テューバを取りに行った。
「全く。どういうつもりなんだか」
植村は銀色のユーフォニアムを持ち上げて、新木の右隣に出された椅子に座った。
朝の低音のセクション練習は、やはり蘇我のテューバに問題があった。蘇我は、一切の強弱を無視して「スプリング・グリーン・マーチ」の全ての音を乱暴なフォルテで吹いていた。
千鶴は蘇我がテューバのベルを向けられない蘇我の左斜め後ろに立って、コントラバスを弾いた。
(蘇我さん、やっぱりこんな調子かなあ)
千鶴は、蘇我の鉈で薪を割るような、攻撃的で乱暴なテューバの演奏に、そろそろ辟易しかけていた。どういうわけか、低音のセクション練習に参加している上級生の誰ひとり、蘇我の乱暴なテューバを咎めることはしなかった。
「スプリング・グリーン・マーチ」を通すと、テューバの新木と、ユーフォニアムの植村と、バリトンサックスを代奏している高森と、もう一人の小太りの金色のユーフォニアムを抱えた三年生の男子が集まって何事かを相談していた。相談を終えた四人は席に戻ると、新木が音楽室にいる全員に向けて告げた。
「もう一回、頭から。蘇我さんは、今のバランスで」
(新木先輩、蘇我さんはそのままって……何考えてるんだろ?)
千鶴は奇妙に思いつつ、低音楽器の伴奏音型ばかりでほとんど旋律らしい旋律がない「スプリング・グリーン・マーチ」の合わせに入っていった。
異変は「スプリング・グリーン・マーチ」が中間部に入った辺りで起こった。
木管の分奏や全体の合奏で未乃梨が伸びやかにフルートでソロを吹いていた場所で、急に蘇我のテューバの音量が落ちた。
千鶴はこの場にいない未乃梨の伴奏をするつもりで、中間部のコントラバスのピッツィカートを、できるだけ響きを残すように、音量だけは抑えて弾いた。千鶴の音が示す四拍子の一拍目に、蘇我のテューバだけが食い付けなくなっていた。音の出だしは合っていても後が続かないか、拍に乗ることすらできず息の音だけが出てくる始末だった。
蘇我は何か喘ぐように、肩で呼吸をしていた。どうにも顎か唇のどちらかが思うように動かないのか、蘇我はテューバで思うように音が出せなくなっているようだった。
(いったい、どうしたのかな……?)
千鶴は妙に思って、コントラバスを弾きながら音楽室にいる全員を見渡した。テューバの新木も、ユーフォニアムの二人も、バリトンサックスを吹いている高森も、蘇我を一切気にすることなく吹いている。ユーフォニアムの小太りの三年生に至っては、千鶴の弓の動きやピッツィカートの時の右腕の振りを見て吹いていた。
蘇我の調子は、戻りそうになかった。特に、音域が低くなればなるほど、蘇我のテューバは発音が上手くいかないようだった。特に、千鶴がコントラバスの開放弦のAから下の低い音域を弾いている時に、蘇我のテューバは空回りをしていた。
「スプリング・グリーン・マーチ」が最後の和音にたどり着く頃には、蘇我はもうテューバを吹いていなかった。
通しが終わって、高森はバリトンサックスを持ったまま蘇我の方を振り向いた。
「やっぱりね。そうなると思った」
植村も、膝の上にユーフォニアムを寝かせるように抱えると、前下がりのボブの髪をかき上げた。
「蘇我さんさぁ、周りに低音がこんだけいるのに、どうして頼らないわけ?」
二人の二年生に問われてますます仏頂面になる蘇我を、千鶴は心配そうに見た。
(蘇我さん、顎を押さえてる……? 何があったんだろ?)
(続く)




