♯53
サックスの高森とユーフォニアムの植村に持ちかけられた朝の低音のセクション練習に千鶴によぎる、蘇我が来ることへの不安。
そして、未乃梨の中で大きくなっている千鶴への思い。
翌日の朝の練習に蘇我が来ると聞いて、千鶴は暗澹たる気持ちになった。
「大丈夫、ですかねえ」
「あー、その辺は安心しといて。こないだの合奏みたいなおかしな真似をしだしたら、今度は私がその場で蘇我さんをシメるから」
植村は素っ気ない表情のまま、物騒なことを言い出した。
「前にあたしが音楽室でピアノ弾いてて蘇我さんに怒鳴り込まれた時に、もうちょいキツめにシバいとくべきだったかな。パート練習じゃしばらく大人しかったんだけど、まさか合奏でやらかしてくれるとはね」
植村も、先日の合奏での蘇我の態度に我慢ならない様子だった。
「そういう訳で、明日の朝は低音だけでセク練やるから、宜しくね。私も一応立ち会うから」
明朝の練習は高森も来るらしかった。突拍子もない高森の申し出に、千鶴は疑問が口をついて出た。
「え? 高森先輩のサックス、確か小さいやつですよね?低音じゃないんじゃ」
「本当ならサックスパートでバリサク吹いてる一年生にも来てもらうつもりだったんだけど、彼って家が遠くてさ。代わりに私が吹くよ。アルトサックスと指は同じだしね」
植村は未乃梨と凛々子の顔を等分に見回した。
「まあそういう訳で、小阪さんに仙道さん、明日の朝は君らのカノジョを借りるから、宜しく」
「あら。私はいいけど、未乃梨さんはどうかしら?」
いたずらっぽく微笑む凛々子に、未乃梨は言葉を詰まらせかけた。
「カノジョ、って……あの、私も凛々子さんも千鶴とはそういうのじゃなくてっていうか、……もう、凛々子さんも何変なこと言い出すんですか!?」
「じゃあ、聞くまでもなかったわね。普通に吹部の朝練なんだし?」
「もう……」
未乃梨は頬を染めてうつむいた。
「とりあえず、コンクール前に余計ないざこざの種は無くしたいしさ、江崎さん、協力お願いね。明日の朝早くから申し訳ないけど、宜しく」
片手を上げる高森に、植村も片目をつむって続いた。
「ま、あたしや他のユーフォとテューバもいるし、玲もバリサクの代理で入るから、万が一蘇我さんが何かやらかしても安心してていいよ」
「……わかりました」
言いようのない不安を感じながら、千鶴は返事をした。
その日の帰り道は、未乃梨は千鶴とややためらいがちに手をつないだ。校門で凛々子と別れるまで、未乃梨には何故か千鶴と手をつなぐのははばかられた。
駅のホームで少し恥ずかしそうにうつむく未乃梨に、千鶴は長身を屈めてそっと話しかけた。
「未乃梨、どうしたの?」
「……あのね、千鶴」
「うん?」
「さっき、千鶴のこと、私と凛々子さんのカノジョ、って言われたじゃない? ユーフォの植村先輩にさ」
「そうだったね。……そういうこと、考えたこともなかったなあ」
千鶴はそろそろ色付き始めた雲を見上げた。晴れ間の見える空は、まだ夕闇に沈むには遠い青さを残している。
「ねえ、千鶴……やっぱ、なんでもない」
未乃梨は何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。代わりに、未乃梨はいつものように千鶴に身を寄せるように近付くと、千鶴の手をそっと握った。
「そんなに、私と手をつなぎたかったの?」
「……別に、いいじゃない」
未乃梨は千鶴の手を握ったまま、千鶴の二の腕にくっつくように身体を寄せた。ブレザー越しに未乃梨のふくらみが千鶴の二の腕に当てられて、千鶴の表情が戸惑いに染められていく。
「……あの、未乃梨? 当たってるけど」
「……千鶴なら、いい。女の子同士だもん」
「嫌じゃ、ないの?」
「平気。千鶴は、触りたい?」
「未乃梨。そういうこと、言わないの」
千鶴は未乃梨に握られていた手をそっと離すと、未乃梨の肩に回した。程なく電車がホームに到着して、二人はそのまま乗り込んだ。
家の最寄り駅を降りても、未乃梨は千鶴から離れなかった。未乃梨は千鶴の右腕に自分の左腕を絡ませたまま、言葉少なにゆっくりと歩いた。
千鶴の二の腕に、また未乃梨のふくらみがそっと制服越しに当たっていた。未乃梨が息を吸うたびに押し当てられるそれの感触は、千鶴に後ろめたさを感じさせていた。
「……もう。また、未乃梨のお父さんに叱られちゃうよ?」
「見られてなかったら、大丈夫。……それより」
未乃梨は、千鶴の腕に自分の腕を絡めたまま、足を止めた。暗くなり始めた歩道の街路樹の陰で、未乃梨は千鶴の顔を見上げた。
「……カノジョにするなら、私と凛々子さん、どっちがいい?」
「そんなこと、考えてたの?」
「変、かな」
千鶴の顔を見上げる未乃梨の瞳に、街頭や信号の光が入ってきらめいていた。その未乃梨の瞳の光が、すっと揺らぐ。
何かを言いたそうに開きかけた未乃梨の唇が、千鶴の目に入った。その唇が、弱々しく動く。
「……千鶴、ごめん。今日の私、ちょっと変みたい。明日の低音のセクション練習、頑張ってね」
未乃梨は千鶴の腕を離すと、そのまま爪先立って千鶴に正面からそっと抱きついた。千鶴と未乃梨のふくらみが制服越しに触れ合って、互いの柔らかな弾力の心地良さに二人は微かに戸惑った。
「……千鶴、こんなこと、他の女の子としないでね」
「……他に、誰とするの?」
「……心配なの。中学から、千鶴って女子にも人気だったもん。髪をリボンで結ぶようになってから、可愛くなったし」
未乃梨はふわりと千鶴から離れた。
「それじゃ、また明日。教室で、ね」
頬を染めた未乃梨の後ろ姿が夕闇に紛れるぐらいに離れるまで、千鶴は未乃梨を見送った。
(続く)




