♯51
未乃梨と千鶴と凛々子、それぞれの想い。ゴールデンウィークの本番を控えた三人の演奏の向こうに待っているのは……。
フルートをチューニングをしながら、未乃梨は横目で千鶴を見ていた。
いつの間にか、コントラバスを構える千鶴の姿は随分と様になっていた。弓を持つ右手も、弦を押さえる左手も、同じ学年の女子とは思えないほど力強い。その手を自分が引く時、優しく握り返してきて必ず付いてきてくれることも、未乃梨は知っていた。
大きなコントラバスを難なく支える、同じ学年では男子ですら並ぶ者が殆どいないほど高い千鶴の身長も、未乃梨にはこれほど頼もしい存在はなかった。中学時代に部活の後で日が暮れてから家まで送って以来、側にいてこれほど安心できる相手も家族以外では千鶴以外にはいないのだった。
それでも、自分の勧めで高校で吹奏楽部に入ってコントラバスを弾き始めてから、千鶴は少しずつ変わっていた。以前は一緒にスカートを買いに行ったし、男の子のようだったボブは少し伸びてリボンを結ぶようになって女の子らしさが増した。
千鶴の変わった部分には、未乃梨の手が届かない部分もあった。コントラバスを弾く時の右腕の滑らかでどこか優雅になりつつある動作や、背が並の男子より高いことを差し引いても速いコントラバスの上達には、この場にいない人物の影を感じずにはいられなかった。
(千鶴が見ている相手は、私やクラスのみんなや吹部の部員だけじゃない、きっと、凛々子さんも……)
千鶴は誰かと合わせてコントラバスを弾く時、どこかで一緒に演奏する相手のことを第一に考えているような節があった。それは、千鶴の生来の優しさから来るものだろう。そしてそれは、凛々子や瑞香や智花たちユースオーケストラの弦楽器の面々と合わせるときでも、吹奏楽部の合奏でも変わらなかった。
(多分、蘇我さんのことだって、ちゃんとした演奏を一緒にできれば、って思ってるはず。……でも、どこかで私のことだけ見ててほしいって思うのは、間違ってるのかな)
千鶴はコントラバスを調弦しながら、未乃梨をそっと見た。
中学時代に知り合って以来、銀色のフルートを構える未乃梨はずっと千鶴にとって最高に素敵な女の子だったし、日が暮れてから未乃梨を家に送ってからは未乃梨との距離は一気に縮まっていた。受験して一緒に通うことになった高校も、入った部活さえも未乃梨と同じで、一緒に過ごす時間は高校時代より増えていた。そのはずだった。
同じ部活に入っても、フルートを吹いている未乃梨とは意外に遠い関係だった。そもそもフルートと千鶴が弾いているコントラバスは、音域も役割も、合奏での配置や楽器の種別さえも何もかも違っていた。他に同じ楽器がいない千鶴と、フルートのパートだけで合わせたり初心者で入部したパート員を教えたりと忙しい未乃梨はどうしてもすれ違いがちだった。
それが、たまたま知り合った凛々子がきっかけで色々なことが変わり始めた。
楽譜の初歩から始めた楽器の演奏のこと。見様見真似で凛々子のヴァイオリンと合わせた曲。凛々子に練習を見てもらっていることを未乃梨に知られたことがきっかけで合わせたバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」。そして、凛々子が入っているというユースオーケストラのメンバーも交えて受けた養護施設での演奏の依頼。
(未乃梨とずっと一緒だと思ってたのに、凛々子さんとも関わるようになって、学校の中と外で色んな人と知り合って……)
いつの間にか、千鶴の身近には二人の少女が身近に関わるようになっていた。
(未乃梨も、凛々子さんも、私には大事な人で。でも)
千鶴は、未乃梨には言っていないことがあった。
練習が終わったあとで、夕方になって暗くなった校舎の階段を下りる時に、千鶴は凛々子を気遣って手を貸した。その感触は、未乃梨と何度手をつないでも忘れることはなかった。
(未乃梨と凛々子さん、……一緒にいる事が多い女の子が二人もいたら、やましいことがなくても蘇我さんにあんなことを言われちゃうのは仕方がないかも、だよね)
未乃梨と千鶴がそれぞれの楽器を準備し終えたところで、空き教室の引き戸が開いた。
「二人ともお待たせしちゃったわね。それじゃ、始めましょうか。未乃梨さん、早速だけどAを下さる?」
緩くウェーブの掛かった長い黒髪を翻しながら、凛々子が空き教室に入ってきた。ヴァイオリンをいつものワインレッドのケースから取り出して弓を張ると、未乃梨がフルートで吹くAに合わせてヴァイオリンを手早く調弦した。
「未乃梨さん、今日は調子がいいみたいね。じゃ、今日は『G線上のアリア』から」
凛々子は大人っぽく微笑むと、未乃梨と千鶴を等分に見た。千鶴が弾くコントラバスのピッツィカートと凛々子が弾くヴァイオリンの対旋律に乗って、未乃梨は「G線上のアリア」の主旋律を歌い出した。
未乃梨の真っ直ぐなフルートは、前に合わせた時より瑞々しさを増していた。速めのテンポで動く千鶴のピッツィカートも、「アリア」の曲の運びを不必要に重くすることなく、未乃梨が紡ぐ祈るような旋律をしっかり支えている。
(二人とも、良い演奏者よね。ここまで気持ち良く一緒に演奏できるんですもの……でも)
凛々子の中でも、演奏に支障のない部分小さな引っ掛かりがあった。
(私が千鶴さんと一緒に弾きたいと思うのは――どういう理由なのかしら、ね?)
凛々子は、ヴァイオリンの弓の陰で、二人に隠れるように小さく口角を上げた。
(続く)




