♯43
仏頂面で千鶴を邪魔するようにテューバを吹く蘇我と、困惑する周囲の面々。
謂れのない敵意に、千鶴は……?
その日の放課後、空き教室でヴァイオリンを弾いていた凛々子は、遠くから聴こえる吹奏楽部の合奏の音に面食らった。
(音楽室の方から……この曲、確か、千鶴さんたちが参加してる「スプリング・グリーン・マーチ」?)
凛々子は、シューベルトの「グレート」のパート譜から思わず目を離した。
(妙だわ、どうして低音だけこんなに大きいの? ……この音、管楽器の誰かがバランスを無視して吹いてる?)
おかしなバランスの「スプリング・グリーン・マーチ」が不意に止まった。凛々子はほっと安心して息をついた。
(……流石に止めるわよね。もしこのまま合奏を続けるような部活なら、……少なくとも千鶴さんには退部を勧めるかもしれないわ)
子安からの指示があっても、蘇我は仏頂面でテューバを抱えたままだった。そのテューバは不自然にやや左側に傾いていて、ベルが左で立ってコントラバスを構えている千鶴に向けられている。
フルートの席に座っている未乃梨やサックスパートでアルトサックスを膝に置いて座っている高森も、心配そうに千鶴の方を見ていた。
子安の指揮棒が上がって、ユーフォニアムとテューバとコントラバスだけでの「スプリング・グリーン・マーチ」が始まった。
前奏の二小節の伸ばしから、おかしな吹き方をしている者がいた。コントラバスと同じ高さの音を、蘇我が力任せに荒々しくテューバで吹いていた。
(うわっ!?)
千鶴は自分の横顔に直接投げつけられてくるような蘇我のテューバの音に怯みそうになりつつ、休止符に入ってすぐコントラバスを抱えて半歩ほど後ろに下がった。蘇我が力任せに吹くテューバの音から逃れると、そのまま演奏を続けた。そこで、子安の指揮棒がまた止まった。
「ユーフォとテューバとコントラバスの皆さん、今と全く同じ演奏で、木管楽器について行ってみて下さい。では、フルートとクラリネットが入るところまで、もう一度」
もう一度、子安の指揮棒が上がった。蘇我がテューバでバランスを度外視して吹く音が混ざった、前奏の二小節の低音の伸ばしが過ぎて、マーチの主部でクラリネットが軽やかに主旋律を歌う箇所に入っても、蘇我だけは先打ちの伴奏を無理やりな大きな音で、千鶴のコントラバスの音を消そうとするように吹いていた。その音は、クラリネットからフルートへと受け渡される軽やかな主旋律を、歩こうとする人間に足枷を着けさせるように妨げて、まるで聴こえなくさせていた。
千鶴はフルートを吹いている未乃梨の顔を見た。未乃梨は、明らかに吹きづらそうに眉をひそめていた。
子安はもう一度指揮棒を止めた。
「さて、低音の皆さん。今のを演奏していてクラリネットとフルートが聴こえていた人はいますか?」
千鶴は思わず、テューバとユーフォニアムのパート員を見た。
蘇我の向こうに座るテューバのスポーツ刈りの上級生は渋い顔をして、蘇我に小声で何事か諭していた。ユーフォニアムの上級生の二人は明らかに困った顔のまま沈黙を通していた。
蘇我が仏頂面のまま口を開いた。
「私には聴こえていました。このままで大丈夫です」
「そうですか。では、ちょっと実験をしてみましょう。低音はユーフォニアムとコントラバスだけで、クラリネットとフルートはあとから入ってきて下さい」
再び「スプリング・グリーン・マーチ」が始まった。前奏の低音の伸ばしは、ミキサーにかけた果物をザルで濾してできたジュースのように、響きが澄んだ。
歩むようなフレーズを刻む千鶴のコントラバスの響きが心地よい春風のように音楽室の中を広がって、上級生二人が吹くユーフォニアムと混ざり合い、クラリネットからフルートへと受け渡される軽やかな旋律をしっかりと引っ張った。
千鶴は、蘇我のテューバに通せんぼをされたように聴こえなかったユーフォニアムの音を耳で捉えて、演奏しながらその聴こえてくる方向を向いた。ユーフォニアムのパートは、時折木管楽器の主旋律に合いの手を入れるような、聴き手の興味をくすぐる八分音符の連なりを吹いていた。その振る舞いは、千鶴が先日「カノン」を合わせた時に、智花がチェロで低音パートに追加して入れた分散和音と、どこか似ていた。
(あれ? ユーフォニアムって楽器、こないだ合わせた智花さんのチェロに似てる? こんな音が邪魔されて聴こえなかったの?)
もう一度、子安の指揮棒が止まった。子安は低音楽器の方を向いた。
「今ので、クラリネットとフルートはともかく、ユーフォニアムが何をしているかまで聴こえてきましたね。ここに、テューバの皆さんは周りの音を邪魔しないように響きを付け加えてほしいのです。わかりましたね?」
子安は、明らかにある一人に言い聞かせるように言ってから、「それではもう一度、全員で最初からお願いします」と告げて指揮棒を構えた。
千鶴も弓を取り直して、コントラバスを構えた。その時、千鶴は右側から妙に苛立ったような視線を感じた。
蘇我がテューバを抱えたまま、半歩後ろに下がって楽器のベルを直接向けられない場所に立っている千鶴を睨みつけていた。その目には、明らかに敵意が込められていた。
(うわあ、何なのこの子)
千鶴は助けを求めるように木管パートをもう一度見回した。フルートパートの席から、未乃梨が心配そうに千鶴の方を見ていた。
(続く)