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♯4

遠くから聴こえる未乃梨のフルートと、黒髪の上級生の凛々子が弾くヴァイオリン。そして、凛々子は何かを考えているようで……?

 申し出に面食らっている様子の千鶴(ちづる)にまじまじと見つめられても、黒髪の少女は動じてすらいなかった。

「コントラバスではないけれど、似たような楽器なら、ね。言葉で説明するより、こうする方が早いかしら」

 遠くから聴こえるフルートの「メヌエット」が流れる中で、黒髪の少女は肩に提げていたワインレッドのケースを開けると、中から先ほどまで千鶴が弾いていたのと形だけはよく似た、大きさは遥かに小さい弦楽器と、細くていかにも軽そうな弓を取り出した。

 千鶴は言葉を詰まらせた。

「あの、それって……」

「ヴァイオリンよ。近くで見るのは初めてかしら」

 千鶴は、たった今出会ったばかりの黒髪の少女がヴァイオリンを手慣れた様子で構える所作に、すっかり見とれてしまっていた。

 自分より顔ひとつは背の低い身体をやや捻って楽器を構えるその姿勢も、弦を軽く鳴らして調子を確かめる弓の運びも、千鶴には初めて間近で見る不思議に美しい所作に思えた。

 黒髪の少女は、ふと遠くのどこかの空き教室から聴こえてくるフルートの音を聴きつけて、すっと弓を掲げるようにヴァイオリンの弦に乗せた。

「アルルの女のメヌエット、ね。これを弾いてみましょうか」

 気負いもなく弓が運ばれて、遠くから聴こえる「メヌエット」と同じ旋律がヴァイオリンから流れはじめた。フルートの澄んだ響きとは違う、揺らいで彩りをまとうその音色は、千鶴に未乃梨(みのり)と目の前の黒髪の少女との違いを思わせた。

 千鶴は、黒髪の少女がヴァイオリンで弾いた、「メヌエット」のほんのフレーズひとつにすっかり聴き入ってしまっていた。

「信じてもらえたようね?」

 黒髪の少女は弓を下ろすと、ヴァイオリンの弦を拭いてケースの中に仕舞っていく。全てを片付けてワインレッドのケースを肩に提げると、黒髪の少女は千鶴に「スマホ、持ってるかしら?」と尋ねた。

「あ、はい」

「ちょっと貸して」

 千鶴からスマホを受け取ると、黒髪の少女は画面を数回タップした。自分の番号を打ち込んだらしく、程なくして少女のスカートのポケットからバイブレーションの音が鳴った。自分のスマホに何かを打ち込むと、黒髪の少女は千鶴にスマホを返した。

「それ、私の番号。せんどうりりこ、が名前よ。あなたのお名前は?」

 千鶴は、勝手に打ち込まれた番号といつの間にか届いていた「仙道凛々子」という名前だけが書かれたメッセージが表示されたスマホに、有無を言わせないもの感じて自分の名前を返信した。

「……あ、江崎(えざき)千鶴、です」

「覚えたわ。江崎さん、明日の放課後に練習を覗きに行ってもいいかしら?」

「はい。何か特別なことをやってるわけじゃないですけど」

「十分凄いことよ。あなたみたいに背の高い子が、コントラバスを弾くってことは、ね。それじゃ、また明日」

 凛々子は、緩くウェーブの掛かった長い黒髪を翻すと、階段を降りて立ち去っていった。

 千鶴は、そのスクールバッグと一緒に肩にワインレッドのヴァイオリンケースを提げた後ろ姿を見送りながら、さっきまで聴こえていたフルートの「メヌエット」がいつの間にか聴こえなくなっていたことに気付いた。

「いっけない、未乃梨、待たせちゃったかも」

 慌てて階段を駆け下りながら、千鶴は校門へと急いだ。

 校門では、いつもの薄い緑色のフルートケースとスクールバッグを提げた未乃梨が千鶴を待っていた。

「ごめん、遅くなっちゃって」

「ううん、私もフルートパートの先輩と話し込んじゃってたし」

「そういえば、メヌエット、吹いてたね」

「今日は好きな曲を吹いて遊んで終わっちゃった。ところで千鶴、そのメヌエットだけど」

「どうしたの?」

「誰か、別の楽器であの曲をやってなかった?」

 千鶴は、凛々子の長い黒髪の後ろ姿を思い出しながら、思わず目を丸くした。

「……そうなんだ?」

「私の聴き違いかもしれないけどね。さ、帰ろ?」

 未乃梨は、いつものように笑顔で千鶴の手を引いた。その小さな手の感触が、千鶴にとって少しだけ、後ろめたかった。


「もしもし、瑞香(みずか)さん? 今、大丈夫かしら?」

『あら、凛々子。どうしたの?』

 凛々子は、帰り道の途中で電話を掛けていた。降りたバス停のベンチに腰掛けると、凛々子は単刀直入に切り出した。

「コントラバスなんだけど。一人、うちの学校で見つかったわ。昨日始めたばかりの初心者もいいところだけどね」

『何それ。仕上がるのは早くて一年ぐらい後じゃない?』

「そう捨てたものでもなさそうね。その女の子、私よりずっと背が高いの。多分、一八〇センチ近いんじゃないかしら」

『そんなに? まあ、指や手が短くてポジションが届かないよりはましかなあ。私もヴィオラ始めた時にそれで苦労したもんね』

「説明が省けて助かるわ。吹奏楽部に入った新入生らしいんだけど、部活じゃその子を教えられる人がいないみたいだし、ちょっとその子を仕込んでみようかと思って、ね」

『まあ、弦楽器同士なら少しはマシかもね。期待しないで待ってるわ』

「うちのオケのコントラバスが一人増えるかもしれないんだもん、試してみる価値はあるわよ。どう?」

『コンミスの凛々子がそこまで言うなら、楽しみにしておくわ』

「身長以外は未知数だけどね。また知らせるわ」

 通話の終わったスマホの画面に目を落としてから、凛々子は随分遅くなった夕暮れの空を見上げた。

「さて、忙しくなるわね」

 凛々子は、今までに弾いてきたオーケストラのスコアの一番下の段を思い浮かべながら、家路についた。


(続く)

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