♯39
瑞香の言葉を受けて、未乃梨の中で渦巻く思い。もし千鶴が髪を伸ばしたら、という仮定は未乃梨を更に悩ませて……?
「それじゃ、私もこれで。本番までにあと一回か二回集まって合わせるから、千鶴さんに未乃梨さん、宜しくね」
智花と瑞香を見送ったあとで、凛々子は千鶴と未乃梨に手を振ると、緩くウェーブの掛かった長い黒髪を翻して、バス停の方へ去っていった。
未乃梨はもう一度、千鶴にむくれてみせた。
「なーんか、仙道先輩に千鶴を名前呼びされるの、違和感あるなぁ」
「じゃあ、未乃梨も名前呼びしたら? 凛々子さんって」
「それは……仕返しになら、ありかも。それより」
未乃梨は収めたかと思えた矛先を、千鶴に向けた。
「千鶴、髪、伸ばすの?」
「え? どうして?」
きょとんと不意を突かれた千鶴の顔を、未乃梨は背伸びして覗き込んだ。
「智花さんにも、クラスの結城さんにも言われてたじゃん」
「まあ、最近伸びてきたし、どうしようか迷ってたけど」
「そう。じゃ、ちょっと屈んで」
「え?」
未乃梨の背丈に合わせて千鶴が屈むと、未乃梨は千鶴の後ろに回り込んだ。布が小さく擦れる音がして、そのすぐ後に千鶴の後ろ髪が引かれる感覚がした。
「未乃梨、ちょっと!?」
「はいこれ。見てみて」
未乃梨は、後ろから千鶴にコンパクトミラーを渡した。その中に、伸びかけたボブをショートテイルにまとめられた千鶴と、ハーフアップにしているはずのセミロングの髪をノーセットに下ろした未乃梨が映っている。
「あれ? え?」
千鶴は思わず顔を横に向けた。コンパクトに映るショートテイルにされた髪に、未乃梨の髪を結っていたはずのリボンが結ばれている。
「千鶴、それあげる。伸ばすんなら、私と同じリボン着けて」
「なんで? どうして?」
「なんででも、どうしても、よ。千鶴が可愛くなってくところ、私が手助けしたいの」
戸惑う千鶴に、未乃梨は言い切った。
「ヘアアレンジしたくなったら、私に最初に相談してよね。伸ばすのでも、ボブのままでも」
「あ……うん」
結われた髪の引かれるような慣れない感覚と、さっきまで未乃梨の髪に結ばれていたリボンの感触が、千鶴を受け身にさせていた。その千鶴の手を取ると、未乃梨は「ほら、私たちも帰るわよ」と、いつもの駅へと引っ張った。
「智花、さっそく千鶴さんにちゃん付けしてたね?」
帰りのバスを降りると、瑞香は智花にいたずらっぽく笑いかけた。
「いけないの? 星の宮ユースじゃみんなああいう感じでしょう」
悪びれない智花に、瑞香は歩きながら智花の腕にもたれかかった。
「ふーん? ユースの団員でもない女の子を、ちゃん付けで呼ぶんだ?」
智花は、瑞香がもたれてきた逆の側の肩に提げたチェロケースを担ぎ直すと、瑞香の腰に手を回す。
「なんていうか、ね。あの千鶴ちゃんって子、同じ低音楽器として、安心して一緒に弾けちゃうのよ。始めたばっかりなのに」
「楽しそうに『第九』を一緒に弾いてたもんね。……千鶴さん、オーケストラに興味、あるかなあ?」
身を寄せてくる瑞香と歩きながら、智花はふと空を見上げた。気の早い星がいくつか、東の空に瞬いている。
「どうかしら、ね。せっかくコントラバスを選んだんだし、吹奏楽部でも学校の外でも、色んな場でたくさん経験を積んでほしいってのはあるかしら。ところで」
智花は自分に身を寄せて歩く瑞香の顔をじっと見た。
「あのフルートの子の様子、どうだった?」
「ああ、未乃梨さんね。ちょっと、悩んでた」
「もしかして、千鶴ちゃんのこと?」
瑞香は「困ったことにね」と、智花を見返した。
「あの子、千鶴さんを友達以上に好きになって、悩んでるみたい」
「私たちみたく、あまり悩まずに済んだケースの方が、珍しいよね。異性を好きになる子だってなやむのにさ」
「だよね。……チェロ持ってるのに、送ってくれてありがと」
瑞香は街路樹の側で足を止めた。夕暮れの暗がりに沈む樹の陰は、二人を街の風景から巧みに隠していた。
周りの人影が絶えたのを見計らってから、瑞香は眼鏡を外して制服の黒いブレザーのポケットに仕舞うと、手を智花の肩に置いて少し背伸びをした。二人の唇が一瞬触れて離れる。
「もう。……それじゃ、瑞香、お休み」
「智花も、お休み。またね」
眼鏡を掛け直して、手を振って立ち去るヴィオラケースを担いだ瑞香の後ろ姿を、智花はしばらく立ち尽くして見送った。
家に帰ると、未乃梨は瑞香に言われたことを思い出していた。
歯を磨いて自室に引っ込んだ未乃梨の頭の中を、ぐるぐると思いが巡っていた。
(……でも、今の私には、千鶴に自分のリボンを渡すのが精一杯で。でも、千鶴が仙道先輩……凛々子さんとか、色んな人と仲良くなってくのは嬉しいけど、やっぱり千鶴と一緒にいられなくなるかもって、思っちゃうのは寂しくて)
未乃梨はベッドに横たわると、スマホに入った画像をいくつか開いた。初めてコントラバスを持った千鶴と自分が写っている画像を開いて、未乃梨はふと、髪を伸ばした千鶴を頭に思い浮かべた。
(千鶴、伸ばすとしたらどれぐらいかなあ。ロングボブ? ミディアム? セミロング?)
スマホの中の千鶴は、画像でもわかるレベルで未乃梨の髪より色味が強かった。未乃梨より太くて真っ直ぐな髪質は、伸ばすと見事なストレートの黒髪になりそうだ。
(……まさか、千鶴が、ロング? 凛々子さんとかみたいに!?)
未乃梨は何故か、髪が肩甲骨を越えて伸びた千鶴を思い浮かべていた。緩くウェーブの掛かった長い黒髪の凛々子と並ぶと、絵になりそうな気がした。
(千鶴のこと、誰にも渡さないんだから。凛々子さんにだって)
未乃梨はスマホを枕元に置くと、点いたままの天井の照明から目を背けた。
(続く)




