♯37
順調に進む初めての瑞香や智花との合わせで、良く仕上がった演奏を聴かせる千鶴。
弦楽器奏者の輪に早くも打ち解ける千鶴に、未乃梨は浮かない気持ちになっていって……。
「それじゃ、休憩にしましょうか。その後で『主よ、人の望みの喜びよ』をやりましょう」
「G線上のアリア」の合わせが終わると、チェロの智花が周りに告げた。
千鶴は「ふう」とひと息ついて、目にかかる前髪を払った。演奏中は気にならなかった伸びかけのボブの髪が、急に気になってきていた。
(「カノン」もだけど、この曲もすごく神経を使うっていうか、なんかすごく集中してないと弾けないなあ……でも、みんなすごく素敵だったな)
千鶴はかつて感じたことがないほどの心理的な疲労と、それを支払って余りある不思議な満足感を味わっていた。
合わせが終わったばかりの「G線上のアリア」で未乃梨がフルートで吹いていたメインの旋律は、以前に千鶴と二人で合わせた時よりずっと清楚で美しく思えたし、その隣で凛々子がヴァイオリンで弾いていた、千鶴が初めて聴く未乃梨のフルートに絡まる対旋律は、それとは対照的に艶めいた別の美しさがあるように思えた。
「千鶴さんだっけ、さっきの『アリア』のピッツィカート、良かったよ。やっぱり、コントラバスが入ると締まるね」
ヴィオラを弾いていた瑞香が、千鶴の顔を横から見上げた。
「あら、瑞香、私のチェロだけじゃご不満? ……と言いたいところだけど、低音域と響きの厚さでアンサンブルを作るのはコントラバスの特権よね」
智花がチェロの弓を緩めながら、冗談めかして言った。
「千鶴さんが『アリア』の通奏低音をピッツィカートで弾きたい、って言った時は悪くないアイデアぐらいにしか思わなかったけど、合わせたらそれ以上だったわね」
自分とは比べ物にならないほど演奏の経験を積んでいて、しかも今日が初対面の瑞香や智花に、そこまで褒められるのは、千鶴には思いがけないほど嬉しかった。
そんな千鶴を、未乃梨はフルートを持ったままぼんやりと見ていた。未乃梨の中に、隙間風のような寂しさが静かに吹き込んでいた。
(千鶴、いつの間にか弦楽器の人たちと馴染んでる……)
千鶴が始めたばかりのコントラバスを手にして、演奏の場で瑞香や智花といった年長の相手と簡単に打ち解ける姿は、未乃梨にとって予想外だった。
未乃梨はフルートを置くと、「ちょっと、お手洗いに行ってきます」と言い残して、教室を出た。
凛々子は、智花や瑞香とすっかり打ち解けた千鶴を微笑ましく思っていた。
「あら、すっかり仲良くしてるのね?」
「ヴィオラとチェロとコントラバスは中低弦でみんな仲間だからね。どこで会っても最初から仲間なんだよ」
片目をつむって応える智花に、瑞香は「はいはい」と失笑した。
「智花ってそうやってすぐ女の子に近付くよね? もう」
「まあ、人聞きの悪い」
「浮気しなかったことは認めてあげるけどね。あ、私もちょっとトイレ」
瑞香は机に置かれたフルートに目をやると、教室を出た。
「あら。行ってらっしゃい」
智花も、そのフルートに目をやると、瑞香に手を振った。
未乃梨は、手洗いの鏡を見ながら、物思いに沈んでいた。二年一組の教室で曲を合わせていたときには聴こえなかった吹奏楽部の管楽器の音が、妙に遠く離れた場所から聴こえるようで、未乃梨は校舎の中で自分ひとりだけが取り残されているように思いかけた。
その未乃梨を、物思いからそっと掬い上げる声がした。
「お疲れ様。フルート、素敵だったよ」
手洗いの鏡に、他校の黒いブレザーと黒いスカートの、眼鏡に低い位置の二つ結びの年長の少女が映っていた。
「あ、……今井先輩、でしたっけ。ありがとうございます」
「ああ、私のことは瑞香でいいよ。よその学校の部外者だし。ところで」
瑞香は自分に振り向いた未乃梨に、半歩近付いた。
「演奏中、ずっとコンバスの千鶴さんのことばっかり見てたけど、何かあった?」
「……いえ、何でも、ないです」
「そう。思ったことがあったら、直接言ってあげようね。智花みたいに、言っても分かんない鈍感なのもいるけど」
くすりと笑う瑞香に、未乃梨は俯きそうな顔をはっと上げた。
「あのチェロの人と、知り合って長いんですか?」
「私が中学一年で星の宮のユースオケに入って以来だから、もう六年目かな。付き合い出してからは三年目」
「その……女の子同士で、ですか?」
「そうだよ。だから、もしかして、千鶴さんのこと、そう思ってるのかな、って」
「……友達としては、ずっと前から好きだけど、最近、分かんなくなってきてます」
未乃梨は、再び俯きかけた。
(千鶴って中学の頃から人気者だったけど、高校に入ってから色んな人とどんどん仲良くなって……私が放ったらかしにされてるわけじゃないのに私のことをもっと見て欲しいって思ってるなんて、誰かに言えるわけ、ない……)
「とりあえず、千鶴さんに、思ってることをちゃんと伝えてみるのはどう? 好きなら好きって、直接伝えるのも、意外とアリかもよ?」
瑞香の言葉に、未乃梨ははっとして再び顔を上げた。
(続く)




