♯363
音楽室の朝練で、千鶴のコントラバスが上達していることを改めて知る未乃梨。
千鶴に見える凛々子の影響に、未乃梨はどこか複雑で……?
その日の千鶴の朝の練習は、妙に集中できていた。
コントラバスの調弦を手早く済ませると、千鶴は星の宮ユースオーケストラで取り上げた曲をいくつか復習してみた。
(他の曲も合奏でいくつか注意があったけど、やっぱり「マイスタージンガー」が一番音符が細かくて難しいんだよね)
千鶴は音楽室の机に腰掛けると、「マイスタージンガー」の譜面をさらい始める。ディアナホールの練習場に準備されていた楽器より反応がやや鈍い、音楽室の備品のコントラバスが、それでも千鶴の弓の運びに合わせて、長くて太い弦をしっかりと振動させている。
(この曲、最初からメロディーを任されてるみたい。主役はヴァイオリンとか管楽器とか、他にいっぱいいるはずなのに)
千鶴は「マイスタージンガー」のパート譜に、周囲の目や耳が全く気にならなくなるぐらいに集中して向き合った。
コントラバスの練習を始めた千鶴から、未乃梨は目と耳を離せないでいた。
(私、何してるのよ。朝練の時間、無駄になっちゃうじゃない)
組み立てたばかりのフルートを吹いてチューニングを確かめながら、それでも未乃梨の耳は自分のフルートより、音楽室を満たす巨大な弦楽器の低音に引っ張られてしまう。
せめて基礎のスケールだけでも吹こうと未乃梨がフルートを構え直すと、千鶴のコントラバスが鳴らすフレーズが姿を変えた。千鶴のコントラバスが、大型の低音楽器にしては細かい、音階を上下に駆け巡るフレーズを弾き始めている。
未乃梨は、手にしたフルートから思わず唇を離して千鶴を見た。
(え……? 千鶴、もうこんなに弾けるようになったの!?)
音楽室の机に腰掛けてコントラバスを構えている千鶴が、未乃梨には想像もつかないような軽快で速い動きのフレーズを弾いている。
時折左手が弦を押さえ損ねたり、右手に持った弓が弦を無らしきれなかったりしてフレーズに綻びがあるものの、千鶴の弾くコントラバスは未乃梨の想像を超えつつあった。
(弦バスってこんな風に弾けてしまうものなの? あんなに大きくて重そう楽器で、弦も太くて長いのに? ……そういえば)
無心でコントラバスを弾く千鶴の姿を見るうちに、未乃梨はどうしても思い起こさずにいられないことがあった。
(千鶴、あんまり無駄に身体をばたばた動かさないで弾いてる? ピアノでもフルートでも上手い人は無駄な動きがないけど……もしかして)
まだ粗があるとはいえ、千鶴のコントラバスの弦を押さえる左手も、弓を手にした右手も、そろそろ初心者に特有の無器用さが取れかけている。その動きは、未乃梨にあまり思い出したくない名前を意識させてきた。
(弦バスを弾いてる時の千鶴の動き、何だか凛々子さんがヴァイオリンを弾いてる時みたい!?)
未乃梨は一度目を見開きかけてから、不意に自分の肩をつつく者に気付いて振り向いた。
「おはよ、小阪さん」
「え……あ、高森先輩!?」
高森が、驚く未乃梨の耳元で声を落とす。
「すごい顔で江崎さんの練習を見てたみたいだけど、どうかした?」
「いえ、何も……ただ」
「ここまで江崎さんが上達してるのに驚いちゃった、ってとこ?」
高森は音楽室の机にサックスのケースを置きながら、未乃梨の顔をじっと見た。
「そういや江崎さん、仙道さんとこのオーケストラにも行くようになったんだっけ?」
「……そう、ですけど」
「それじゃ、これから部活でやれないことをどんどん勉強してくる感じだね。私が軽音部とか桃花高校に吹きに行くみたいにさ」
目の前で銀色のマウスピースをサックスに取り付ける高森を、未乃梨はどこか遠い場所を眺めるように見ていることしかできなかった。
その高森と、先ほどからコントラバスでオーケストラの曲らしい速いフレーズを弾いている千鶴は、方向性が違うだけで未乃梨から遠い場所にいるようにも思えるのだった。
(でも、千鶴は高森先輩とは違う。千鶴は、凛々子さんに私の前から連れて行かれているみたいで――)
そんな思いを抱えたまま、未乃梨は朝の練習を過ごした。
昼休みになっても、未乃梨の気持ちの引っかかりは取れないままだった。購買の自販機にお茶を買いに千鶴の手を引いて出かける時も、その手につい力が入りそうになってしまう。
やや強引な未乃梨に、千鶴は困ったように笑う。
「未乃梨、自販機はそんなに混まないでしょ。そこまで急がなくても」
「……まあ、そうなんだけど」
千鶴の手を引いて歩く速度を落としつつ、未乃梨は整理のつかない気持ちを何とか片付けようとした。
(……別に、千鶴が凛々子さんのオーケストラに行ったって、部活でもクラスでも毎日一緒なんだし。今度の文化祭だって、男装喫茶で千鶴と一緒にジャズとかやっちゃうわけで――)
そんな未乃梨の視界の隅に、見覚えのある長い黒髪の上級生が見えた気がした。
(何でこんな時に……全く)
その上級生はすぐに他の生徒たちの人混みに紛れていく。よく見るとその襟元のリボンタイは緑で、未乃梨が千鶴に引き合わせたくない人物とは違う学年らしい。
「……驚かさないでよ、もう」
「未乃梨、何ブツブツ言ってるの?」
「ううん、何でもないの。あ、私今日はレモンティーにしよっかな」
千鶴の声に慌てて我に返ると、未乃梨は自販機を見ずに取り繕うのだった。
(続く)




