♯362
初めてのオーケストラの練習と、今度の文化祭のジャズと。
そして、ヴァイオリンを弾く凛々子とフルートを吹く未乃梨と。
二人の間で揺れている千鶴は……。
千鶴はコントラバスを仕舞い終えると、同じくヴァイオリンの片付けを終えた凛々子がいる、大練習室の第一ヴァイオリンの席に足を運んだ。
指揮者の三浦と何やら話し込んでいた凛々子が、千鶴を目ざとく見つける。
「千鶴さん、お疲れ様」
「お疲れ様でした。三浦先生も、ご指導ありがとうございました」
一礼する千鶴に、三浦は相好を崩す。
「江崎さんこそ、お疲れ様。次回も宜しく頼むよ。貴重なコントラバス奏者じゃしな」
三浦は、眼鏡の奥の目をぎょろりと見開くと、顔を意外に皺の多い顔を更に皺だらけにしてにっこりと笑う。
凛々子も、千鶴の顔を見上げて口角を上げた。
「千鶴さん、今日は大活躍だったものね。これから何かと大変だと思うけれど、また学校でもしっかり練習していきましょう。それでは三浦先生、ご機嫌よう」
三浦に頭を下げた凛々子に続いて、千鶴も慌ててもう一度三浦に一礼してから、大練習室を出ていった。
帰りの電車は、休日の夕方ということもあってかそう混んではいなかった。
「折角だし、座って行きましょうか」
凛々子は何のためらいもなく千鶴の手を取って、ヴァイオリンケースを抱えながら電車の座席に座を締める。七分袖の秋物の薄いセーターにロングスカートと大人っぽい服装の凛々子の隣に座るのは、まだ千鶴には少し面映ゆい。
「……それじゃ、失礼します」
千鶴が隣に腰を下ろすと、微かに甘い香りが彼女の鼻腔をくすぐっていく。それが凛々子の緩くウェーブの掛かった長い黒髪から香ってくるものだと気付いて、千鶴は少し凛々子から顔を背けそうになる。
「千鶴さん、どうしたの?」
「あ、いえ……何でもないです」
千鶴はどきりと背筋を正した。なぜか、未乃梨のむくれた顔が脳裏を横切った気がする。
「まあ。オーケストラの練習ではあんなに堂々としていたのに」
くすくすと微笑する凛々子に全て見透かされているようで、千鶴はばつが悪そうにそろそろ肩に届く長さに伸びてきた、セミロングの頭を掻いた。
「いえ、その……一日中凛々子さんと一緒にいることって、あんまりないから、つい」
「そうね。でも、これから増えるかもね? 星の宮ユースの練習もこれからやっていく訳だし。それに」
「それに?」
小首を傾げる千鶴に、凛々子はいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「練習以外でも、千鶴さんをお誘いするかもね?」
「あ、あの、それって」
千鶴は、自分の頬がすっと熱を帯びるのを感じて言葉を崩してしまう。
凛々子は、笑みを保ったまま千鶴に告げた。
「今度の文化祭、千鶴さんが男装喫茶に誘われてなかったら一緒に行きたいぐらいだったわよ?」
「……また、未乃梨が不機嫌になっちゃいそうですね」
「オーケストラの前にジャズの本番もあるなんて大変だと思うけれど、どちらも楽しみにしているわ。あと、千鶴さんの男装も、ね?」
凛々子はどこまでも楽しそうに千鶴に話す。それは却って千鶴の気まずさを膨らませてしまう。
「……でも、私、まだ何にも整理、ついてなくて」
「私はいつまでも待つわ。だって、あなたが決めることだもの」
凛々子の声が、やや重く聞こえた気がした。
「……はい」
「それより。文化祭と今度のうちのオーケストラとで本番が続くんだし、楽しみましょう?」
その日、帰りの電車では、凛々子は千鶴に対して笑みを絶やすことがなかった。
月曜日の朝、千鶴はいつものように駅で未乃梨と待ち合わせて、電車に乗り込んだ。ふと、千鶴は微かな違和感を覚える。
(……あれ?)
未乃梨のリボンで結ったハーフアップの髪から漂う、微かな甘酸っぱい香りに、千鶴は昨日の帰りの電車のことを思い出してしまう。
「千鶴? どうしたのよ?」
「いや、何でもないよ」
むくれかけた未乃梨に何とか言い繕ったものの、千鶴は冷や汗をかいた。
(私、何で土曜日の凛々子さんのことを……?)
「千鶴、そういえば、土曜日のオーケストラの練習、どうだった?」
「あ、うん。……難しいところもあったけど、何とかついていけそうかな」
未乃梨に問われて、千鶴は何とか凛々子の話題を出さずにやり過ごそうとした。
「凛々子さんは何か言ってた?」
千鶴の目論見は外れたようだった。未乃梨が自分を見る視線に棘がないのがせめてもの救いだろうか。
「うん。初回にしては良かったって。また、練習しながら詰めていこう、って」
「そうなんだ。……ま、文化祭は私がずっと千鶴の隣にいるわけだし?」
電車が紫ヶ丘高校の最寄り駅に差し掛かって、スピードがゆっくりと落ちていく。ホームに到着してドアが開くと、未乃梨は千鶴の右腕にすがりついてきた。
「凛々子さん、男装喫茶にくるんでしょ? しっかり見せつけてあげなきゃ」
未乃梨は、千鶴の腕を取ったまま音楽室へと向かう。今日の朝練は未乃梨と男装喫茶で演奏するジャズの曲だけで終わりそうだ。
「千鶴のカッコいいところ、凛々子さんに独り占めさせないんだから、ね?」
そう言い切って音楽室の扉を開く未乃梨に、千鶴は少し困り顔のままついて行った。
(続く)




