♯361
「白鳥の湖」の練習の中で、ただただチャイコフスキーの音楽に引き込まれていく千鶴。
練習の後には、楽しみなこともできて……?
千鶴が思案を続ける間もなく、「白鳥の湖」の練習は続いた。
二曲目の「ワルツ」は、千鶴に先日の発表会の合奏で参加した、同じチャイコフスキーが作曲した「セレナード」の「ワルツ」とは随分と様子が違った。
(最初の高い音のピッツィカート……これ、弦楽器全員だったの?)
イ長調の音階をなぞって降りてくる前奏のピッツィカートのフレーズは、穏やかに始まる「セレナード」の「ワルツ」とは違って、何か楽しいことが始まるようなわくわくとした期待を呼び起こすような心が浮き立つ表情をちらりと見せて、主部につながっていく。
前奏に続く主部に入ってから、千鶴はこの「白鳥の湖」の「ワルツ」の音楽の流れに身を任せてコントラバスを弾いた。
ヴァイオリンやヴィオラと管楽器が性格のまるで違う主旋律を交代して描き出したかと思えば、千鶴たちコントラバスが「ワルツ」の頭打ちの伴奏から離れて他の弦楽器と一緒に旋律を受け持ったりと、目まぐるしく場面が変わっていく。
(明るくなったり暗くなったり、コントラバスもずっと脇役ってわけじゃないみたいだし……?)
指揮台に立つ三浦の指揮棒が、そのダンスの運びに緩急を着けて、「白鳥の湖」の「ワルツ」の音楽をますます色彩豊かに磨き上げていく。千鶴は、そろそろ「ワルツ」の全容が得体の知れないようにも思えてきていた。
一方で、自分の弾くコントラバスのパートも含めて、オーケストラの四方八方から聴こえる耳を惹く楽しげなモティーフが、千鶴を迷わせるように次々と姿を現していく。
(何かよくわからないけど……この曲、すっごく広い遊園地みたいな? アトラクションに次々乗ってくみたいに弾いちゃっていいの?)
千鶴は、いつしか「ワルツ」の目まぐるしく変わる音楽の華やかさに当てられて、どこか無邪気にコントラバスを弾くようになっていた。
「ワルツ」に続く「四羽の白鳥の踊り」で、凛々子は音楽が随分と軽妙に運ばれているのを感じ取っていた。
(あら。今日は、ここにバレエの踊り手さんがいたら楽しく踊れそうね?)
三浦が指揮棒の動きを抑えてリズムを浮き立たせるように振っているのもあるだろう。それ以上に、「四羽の白鳥の踊り」をどこか楽しげにさせている原因が、しっかりとステップを踏んで進んでいくような低音にありそうなことが、凛々子には手に取るように聴こえてくる。
(千鶴さん、チャイコフスキーの音楽を気に入ってくれたかしら?)
凛々子は、ヴァイオリンを弾きながらついつい微笑が浮かびそうになる。それは、次の「パ・ダクシオン」でも同じだった。
速水が弾くハープに乗って、凛々子は「パ・ダクシオン」のヴァイオリンソロを、凪いだ湖面を滑る水鳥のように、静かに弾き始めた。
自分のソロがハープに代わって弦楽器全体のピッツィカートで伴奏される場所に差し掛かって、凛々子の口角は少し上がる。第一ヴァイオリンからコントラバスまで五パートある弦楽器が、一台の巨大なハープになったような伴奏は、やはりどこか楽しげに八分の六拍子のリズムを描き出していた。
そのリズムを、波多野のコントラバスに合わせて弾いている千鶴が、波多野と一緒にアンサンブルをしっかりと引っ張っている。ゆったりとした「パ・ダクシオン」が、間延びするのを防ぐのに、千鶴のコントラバスはわずかながら寄与しているのだった。
「ワルツ」の後で「四羽の白鳥の踊り」から続く小曲の連なりは、すっかり千鶴をチャイコフスキーの音楽に夢中にさせてしまっていた。最後の「フィナーレ」に差し掛かる頃には、千鶴は聴き覚えのある旋律が再び現れることに、どこか感動すら覚える。
(これ、最初の「情景」でオーボエが吹いてたメロディー? もう一回出てくるんだ?)
「フィナーレ」が、夜の静かな湖が朝焼けに照らされるように輝かしく終わる頃には、千鶴は一日中遊び回った子供のような、ただただ楽しい疲労感を身体に残していた。
練習を終えて、波多野がコントラバスの弓を緩めながら千鶴に振り向く。
「お疲れ様。初めてのオーケストラ、どうだった?」
「なんていうか、……すっごく楽しかったです!」
少し顔を上気させる千鶴に、波多野も「うんうん」と頷く。
「よし、じゃあ、次は他のパートの人がもっと楽しめるようにしてみようか」
千鶴は少し考え込んでから、明るく返事をした。
「はい! きっちり練習してきます!」
チェロを片付け終えた智花も、千鶴に笑いかける。
「今日のコントラバスパート、色々と積極的だったねえ? 三人だけにしては随分鳴ってたしさ」
「本当ですか?」
嬉色を浮かべる千鶴に、智花は釘を差すのも忘れない。
「あとは、ちょいちょい鳴らし損ねたミスを何とかすれば最高だね。本条先生が来たら、しっかり教えてもらいなね」
「本条先生、そういえば本番に来てくれるんでしたっけ?」
千鶴は、オーディションで自分の演奏を聴いていた本条を思い出す。あの、優しげでどこか頼もしい女流のコントラバス奏者が弾きに来てくれるのは、千鶴ですら楽しみに思えてしまう。
「本条先生は優しいけど厳しいぞー? しっかり練習しといでよ」
コントラバスをケースに仕舞い終えた波多野は、練習後の興奮が残っている千鶴にもう一度笑いかけるのだった。
(続く)




