♯360
テューバの南野から聞かされた、吹奏楽部の顧問の子安の過去の話に思いを巡らせる千鶴。
休憩後に始まった「白鳥の湖」では、千鶴は波多野から受けたとある指摘に気付いたことがあって……?
「子安先生が、今は優しい先生、って……それって、どういう?」
南野の言葉に、千鶴は戸惑わざるを得なかった。
「昔の子安先生のこと、知ってるの?」
「なんとなく、かな。小学校から入ってる金管バンドの先生から、子安先生っていうすっごく厳しい吹奏楽の顧問の先生がいる、って聞いた事があってね」
「厳しい、って、どんな風に?」
「うーん、コンクール以外の曲は練習しちゃダメとか、演奏会を聴きに行っちゃダメ、とか、学校の外にレッスンを受けに行っちゃダメ、とか?」
千鶴は、目が眩む思いで南野の話を聞いた。
「……それ、本当に子安先生? 別の人じゃないの? 私なんか、機会があったらどんどん弦楽器の人に教わったり、学校外で演奏したりしてほしい、って子安先生に言われたのに?」
南野は、千鶴と比べてふた回りは小さそうな手を顎に当てた。
「そこなんだよね。……子安先生、紫ヶ丘の前の学校では吹部の顧問をやってなかったみたいなの」
「それじゃ、子安先生って……」
千鶴は、言葉を失った。
子安は、千鶴が部員でも管楽器奏者でもない凛々子に放課後に練習を見てもらうことも、部活の外での活動することも大いに勧めていた。それどころか、文化祭では他校からゲストを呼んでジャズの演奏をすることすらあっさりと認めている。
横でバス椅子に座ってスマホを見ていた波多野が、千鶴と南野に口を挟んだ。
「私も中学校の吹奏楽部でコントラバスを始めたけど、顧問の先生はオーケストラを聴きなさいって言ってたし、部活以外でもどんどん弾いてみようって言ってたけどなあ」
不思議そうな顔の波多野に、南野が尋ねる。
「その吹部の顧問の先生、どんな人だったんですか?」
「合唱部の顧問もやってる音楽の先生で、まだ若い女の人だったよ。先生と一緒に音楽の勉強を楽しくやっていきましょう、って感じでコンクールは二の次だったけど」
南野は波多野の話に、何か感じ入るところがあるらしく、頷きながら聞いている。
千鶴は、南野と波多野の間で少し考えあぐねていた。
(吹奏楽部の顧問の先生って、普通はどんな感じなのかなあ。紫ヶ丘の今の子安先生とか、波多野さんの中学の時の先生が普通じゃないんだろうか)
休憩を終えて、練習はチャイコフスキーの組曲「白鳥の湖」に入った。
再開した練習の最初に、凛々子はオーボエの席に座る少女が吹くAに合わせてヴァイオリンを調弦し直しながら、チェロの後ろに陣取る遠く離れたコントラバスのパートに目を向ける。
(休憩時間にテューバの子と喋ってたし、千鶴さんってオーケストラに早く馴染んでくれそうね)
コントラバスの太くて長い弦に横顔を近付けて音を確かめながら調弦をする千鶴は、今日はたった三人しかいないコントラバスのパートの一員として、早くも立派に振る舞っているように思われる。
最初の「情景」で、ヴァイオリンとヴィオラが消え入るような弓で弦を細かく震わせるトレモロの弱音と、ハープの波紋が浮かんでは消えるようなアルペジオに乗って歌うオーボエのソロの部分で、凛々子は千鶴の姿に目を見張る。
(……やっぱり、まだどこか覚束ないけれど、それでももう立派なコントラバス奏者だわ)
千鶴はまだ緊張の抜けない面持ちで、ハープの左手やチェロのオクターブ下に重なる低音を、コントラバスのピッツィカートで弾いている。千鶴の右腕の動きからは、慣れないなりに何かを掴みだしたような確かさが、宿りつつあった。
「白鳥の湖」の「情景」の旋律が、オーボエからホルンへ、そしてヴァイオリンとヴィオラのユニゾンへと移り変わって急激に激しさを増していく中で、千鶴は周りのコントラバスや、すぐ前で弾いている八人のチェロに何とか付いてこれている。
どこか軋むような、明らかに千鶴のミスが原因の細かい雑音がほんの少し混ざることがあっても、「白鳥の湖」の「情景」は大雨の中の川の流れのように激しく盛り上がってから、最初にオーボエがソロで吹いた主題を暗く思い返して、沈み込むように終止符を迎えた。
その暗く思い返された主題が、チェロと千鶴を含むコントラバスによるものだと思い当たって、凛々子は小さく息をついた。
(まだ改善すべきところはあるようだけど……それでも初めてのオーケストラの練習でここまで形になってるなんて、やっぱり千鶴さんをうちのオーケストラに誘って正解だったようね)
凛々子の視線の先で、指揮者の三浦がいくつか管楽器セクションに注文をつけている。その更に向こうのコントラバスの席で、千鶴は波多野と何やら小声で相談をしているようだった。
「……ねえ、江崎さん。そろそろ自分でも気付いてると思うけど」
「……はい。私、もしかして急いで弾いちゃってます……?」
緊張した面持ちで、千鶴は小声で波多野に返事をした。
「……三浦先生、さっきの『マイスタージンガー』もだけど、遅めのテンポで引っ張って盛り上げる指揮が得意だからね」
波多野にひそひそ声でそう指摘されて、千鶴には思い当たった事があった。
「……そういえば、『マイスタージンガー』でたくさん弓の幅を使って弾けたのって」
「……そう。三浦先生、みんなが先を急ぐのを止めようとしてほんのちょっとテンポを落としてる。急ぎがちなのは江崎さんだけじゃないんだよ」
「……ええっと、……そういうことも、気を付けなきゃいけないんですね。うーん……」
考え込みかけた千鶴に、波多野は語気を和らげた。
「……コントラバスってオーケストラ全体のテンポに関わってくるからね。でも、指揮者が何をしたいかを私たちが理解出来たら、オーケストラのみんながすぐに付いてこれるんだよ。そうなれば、すっごくいい演奏になっていくんだよね」
波多野の説明を、千鶴はひたすら静かに聞き入りながら考え込んだ。
(……もしかして、私がもっとちゃんと弾けてたら、凛々子さんとか、真琴さんとか、この場に何十人もいるみんなの演奏が上手くいくってこと……?)
(続く)




