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♯36

小さな小さな引っ掛かりを抱えたまま、「G線上のアリア」の合わせに入る未乃梨。

一方で、未乃梨の思いを知りつつ、凛々子の中の思いも浮き上がってきて……。

 未乃梨(みのり)の中の微小な引っ掛かりを残したまま、パッヘルベルの「カノン」が終止符にたどり着いた。

 終わるなり、チェロの智花がコントラバスを立って支えている千鶴(ちづる)の顔を見上げた。

「千鶴さん、楽器始めたばっかりだっけ? それでこれだけ出来たら上出来だよ!」

「あ、ありがとうございます」

「あとは音量のバランスかな。これだけ人数が少ないアンサンブルならもうちょっと音量は押さえても大丈夫だからね」

 横でヴィオラを下ろして眼鏡を掛け直した瑞香(みずか)も「うんうん」と頷いた。

「私としては、音程が良くて乗りやすいコンバスだったかな。やっぱり、背が高いと手も大きくなるから、左手も安定するみたいね」

 年長の二人に称賛される千鶴を、凛々子は次の曲の楽譜を用意しながら横目で見た。

 千鶴は、明らかに他の四人を見ながら「カノン」の自分のパートを弾いていた。千鶴のコントラバスが智花のチェロと噛み合っていたことや、瑞香が「乗りやすい」と言うほどヴィオラを快適に弾いていたことは間違いなかった。

 そして、千鶴がきっかけで僅かに「カノン」のテンポが上がったとき、当の自分までも踊るような楽しさの中で演奏できていたことも、間違いのないことだった。

江崎(えざき)さん、間違いなく私も意識して弾いていた……私のことも考えてくれたってこと、よね)

 凛々子は、隣でフルートを持っている未乃梨に目を向けた。未乃梨は、何か考え事があるようだった。

小阪(こさか)さん、いかがだったかしら?」

 未乃梨は、凛々子に話しかけられて「えっと、その……」と遠慮がちに口を開いた。

「私のフルート、変じゃなかった、でしょうか?」

「とんでもないわ。良かったわよ」

「……ありがとうございます」

 未乃梨は、瑞香や智花とさっそく打ち解けて何やら話し込んでいる千鶴を見ていた。凛々子は、未乃梨に小声で尋ねた。

「江崎さんが他の女の人と話してるの、気になる?」

「え!? その……そんなんじゃなくて……」

「仕方がないかもしれないわね。江崎さん、女の子から見ても背は高くて格好良いし、始めたばかりのコントラバスをもうあんな風に弾けちゃうんだし?」

「……もう。確かに、気にはなっちゃいますけど」

 未乃梨は、凛々子の方を見ずに「G線上のアリア」の楽譜を開いた。

 凛々子は、落ち着かない様子で楽譜に見入る未乃梨と、向こうで瑞香や智花と楽器を軽く鳴らしながら打ち合わせている千鶴を見比べた。

 先ほど「カノン」で周りを気遣いながら弾いていた千鶴には、凛々子の耳も惹き付けられていた。

(私も、江崎さんのことは気になってしまうのよね。……さて、「G線上のアリア」、どう仕上げてきたか、聴かせてもらいましょうか)


 五人が各自で調弦やチューニングを済ませると、「G線上のアリア」の合わせが始まった。

 千鶴は、「アリア」の低音パートを、弦を直接指ではじくピッツィカートで弾き始めた。それと智花の弓で弾くチェロがオクターブ上で重なり、その上を未乃梨のフルートの、祈るような旋律が真っ直ぐに歩んでいく。

 未乃梨のフルートは、凛々子のヴァイオリンと瑞香のヴィオラを風にはためくストールのようにまとって進んだ。最初の繰り返しで、未乃梨は楽譜に書かれていない音を少しだけ差し込んだ。

 フレーズの入りや締めくくりに蓮の葉の上を転がる水滴のような装飾が未乃梨のフルートの旋律に入って、しっかりと歩んでいく千鶴と智花の低音の上できらめいた。

 凛々子は、未乃梨が千鶴を見ながら、繰り返しで楽譜にない装飾音を入れてきたことに少しだけ驚いていた。

(あら。……江崎さんがしっかり支えているから、そういう遊びが入れられるってこと、分かってやっているわね)

 凛々子は、未乃梨に絡む対旋律をヴァイオリンで弾きながら、千鶴を見た。千鶴は先ほどのパッヘルベルの「カノン」と同じように、今度は最新の注意を払ってコントラバスをピッツィカートで弾いている。

 その千鶴の表情はどこまでも誠実で、一緒に演奏する者を安心させる穏やかさがうっすらと宿っていた。

 千鶴のピッツィカートは、以前凛々子と合わせたときより更に繊細さを増していた。オクターブ上で重なる智花のチェロのほろ苦い低音や、その上で未乃梨のフルートにもう一つの対旋律を暖かな音でまとわせる瑞香のヴィオラとも、まるで泡立てたミルクとコーヒーや砂糖が理想的に混ざったカフェラテのように、心地良く合わさっていた。

 凛々子はヴァイオリンを弾きながら、改めて千鶴を見た。

(江崎さん、こんな風に演奏に混ざってくれるなんて……もっと、あなたと一緒にステージに立ってみたいって思うことは、いけないことかしら)

 その思いは、今フルートを吹いている未乃梨と、どこかでぶつかる危うさを孕んでいることも、凛々子には見えていた。

(小阪さん、前に「千鶴はあげませんからね」って言ってたわね。……ごめんなさい、私、江崎さんが欲しくなってしまったみたい)

「アリア」の後半に入って、未乃梨のフルートは危なげないどころか、曲をしっかり自分のものにした、確かな手応えのある吹き方で進んでいた。ときおり入る楽譜にない装飾音が、それを示していた。

 その未乃梨に、凛々子は対旋律をまとわせながら、笑みをこぼした。ヴァイオリンに艶めいたヴィブラートがかかり、アリアの彩りが増していく。

(私も江崎さんのこと、あなたのように千鶴って呼びたくなってしまったわ。あなたが江崎さん……いいえ、千鶴さんに向けてる思いと、私の思いはやっぱり同じみたい)


(続く)





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