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♯358

「マイスタージンガー」の練習の前に、千鶴が見た指揮者の三浦の一面。

そして、練習では思いがけない発見もあり……?

 休憩の後で始まった「マイスタージンガー」の前奏曲の練習は、千鶴(ちづる)に想像だにしなかった光景を見せた。

 まず最初に、指揮台の上に立つ三浦(みうら)は、千鶴たち三人のコントラバス奏者に向かって話を始めた。

「では、ワーグナーですが。コントラバスの諸君」

 やや偏屈そうにすら聞こえるしゃがれ声の続きを、千鶴は緊張した面持ちで待つ。左隣の波多野(はたの)や、後ろの大学生ぐらいの男性は千鶴とは対照的に、三浦の話を随分とリラックスして聞いている。

 三浦は、眼鏡に手をやると指揮台の上から千鶴たちコントラバスの三人を改めて見回した。

「今日は初めてオーケストラに参加する子もいるんだったかな? 確か、前から二番目の、背の高いそこの君。ああ、そんなに私を見てビビってもらっちゃ困る」

 千鶴が首をすくめそうになって、三浦のしゃがれ声が急に喜劇役者か落語家のようなくだけた語り口に変わる。大練習室に半円状に座る、紫ヶ丘(ゆかりがおか)高校の吹奏楽部の倍以上はいそうな星の宮ユースオーケストラの面々の間に忍び笑いが起こる中で、三浦はくだけたしゃがれ声で話を続けた。

「そこの私より腕っぷしの強そうな君、確か江崎(えざき)さんだったか、君も含めてコントラバスが三人しかいない分、今日はフォルテでは遠慮なく鳴らしてほしい。ミスを恐れずに、ね」

「は、はい!」

 思わず千鶴は大きな声で三浦に返事をした。返事をしたのは千鶴一人だけで、思いがけず通る声が響き渡って、その後を一瞬の静寂が大練習室を覆った。

 波多野が、千鶴に耳打ちをする。

「……江崎さん、オケの練習は吹部とか運動部みたいにでっかい声で返事をしなくていいからね?」

「……え? そうなんですか!?」

 千鶴は顔を青ざめさせた。

(しまった……! 私、最初のオーケストラの練習で変な子みたいに周りに思われちゃってる!?)

 すくみかけた千鶴をよそに、三浦のしゃがれ声がまたオーケストラ全体の忍び笑いを誘っていた。

「全く、コントラバス奏者ってのはみんな指揮者を驚かせてくれるからいかん」

 三浦は、わざとらしく苦虫噛み潰したような顔をした。

「こないだの本番なんか、あの本条(ほんじょう)先生が座ってて冷や汗をかいたわい。何しろ、毎回こっちの振り間違いをぜーんぶ覚えとるんだから」

 今度は、オーケストラから上がる大きな笑い声が一斉に三浦に向けられた。コントラバスパートの中で、千鶴以外の二人も楽器を支えたまま吹き出している。すぐ近くにいるチェロの吉浦(よしうら)智花(ともか)も、ヴィオラの真琴(まこと)やコンサートミストレスの凛々子(りりこ)も、ずっと遠いハープの速水(はやみ)や管打楽器の面々も、三浦の失敗談に笑っている。

 千鶴は、ほっと安心をしつつ、オーケストラの前に立つ痩せた眼鏡の指揮者を見た。

(三浦って先生、私がみんなに変に思われないようにわざと笑いを取ってくれたの……?)

 オーケストラの笑い声の中、三浦は改めて告げた。

「さて、与太はここまで。ワーグナーの『マイスタージンガー』、最初から」

 三浦が指揮棒を掲げて、オーケストラ全体が水を打ったように静まる。千鶴もコントラバスを構えて、今一度オーケストラ全体を見渡した。

(この曲、凛々子さんにしっかり練習を見てもらったんだ。やるぞ!)

 ヴァイオリンの凛々子から、すぐ隣のコントラバスの波多野まで、千鶴はオーケストラ全体をできるだけ視界に納める。金管楽器で最もコントラバスに近い席の、銀色のテューバを抱えた小柄な少女も大きなマウスピースに唇を当てて準備を整えていた。

(あの子、私と同じ紫ヶ丘高校だっけ。どんな子なんだろう)

 そんな思いを千鶴が一旦引っ込めた辺りで、「マイスタージンガー」前奏曲の練習が始まった。


 千鶴は、早速、コントラバスを弾きながら心地良い違和感を覚えていた。

(……あれ? なんか、思ってたより、弓を動かす幅が大きい!? 凛々子さんと学校で練習してる時より、楽器をいっぱい鳴らせてる?)

 コントラバスの弓に伝わってくる弦の振動は、千鶴には個人練習の時より遥かに大きく感じられる。吹奏楽部で弾いている楽器より星の宮ユースオーケストラの楽器の方が質も状態も良いとはいえ、千鶴がそのコントラバスから引き出せている響きは遥かに力強い。

「マイスタージンガー」前奏曲は、千鶴が以前に思っていたよりずっと巨大で、豪放な響きをもって始まった。甲冑に身を包んだ騎士が堂々と進むような旋律を支える低音として、千鶴のコントラバスもオーケストラの響きを後押ししていく。

 その自分の音に、全く同じ形で重なる豪放な響きがあることに、千鶴は気付いた。

(この音……この低い管楽器の音、テューバ? あの子か!)

 千鶴や凛々子と同じ紫ヶ丘高校の生徒だという、吹奏楽部員でもないあの小柄な少女が、銀色に光るテューバを得意気な顔で吹いている。その不必要に大きくない音は、奏者の表情とは裏腹に全く隙のない強さがあった。

(あの子、何者……? あんなテューバの音、聴いたことがないぞ!?)


(続く)


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