♯355
初めてのオーケストラの練習を、何とかこなしていく千鶴。その様子は他の演奏者の目を引くに十分で……?
戸惑いにも似た千鶴のいくつかの気付きを他所に、オーケストラの「アルルの女」第二組曲の練習は進んでいった。
最初の『パストラール』の中で、千鶴は長く続く休みの小節を数えながら、自分が弾くコントラバス以外に音を出している他のパートをひたすら目と耳で追い続けた。
(オーケストラって、いつもみんなで音を出すってわけでもないの? そういえば、発表会の合奏でも弦楽器のパートがどこか休んでたような?)
とりとめのないことを考えつつ、千鶴は長い休みを抜けた先に出てくる、長い音符を遅れないように弾いていく。
その、千鶴がためらいがちに弾いたコントラバスの二分音符は、しっかりと響いて他の二人のコントラバスの音に重なって、「パストラール」で和音を組む管楽器や、ユニゾンで旋律をゆったりと歌う弦楽器の群とまるで当たり前のことのように心地良く馴染んでいく。
(あれ? 私のコントラバスの音が、周りにどんどん混ざっていっちゃう!? それも、ちゃんと弾けたらそれだけ綺麗な音になって混ざっていくの?)
何もかもが初めてのオーケストラの合奏で、千鶴は鳴らし損ねた音をわずかに出してしまっていた。それでも、きちんと発音できたほとんどの音符は、オーケストラの音の中にあるべき形で重なって、アンサンブルに豊かさを加えていく。
(私の音ひとつで、合奏の音が変わるの? もっとちゃんと弾けたら、もっとみんなが気持ちよく演奏出来る、ってこと?)
千鶴は、意識を周りの音とと自分の音の両方に集中させた。
すぐ隣で弾いている波多野や後ろの名前をまだ聞いていない大学生ぐらいの男性のコントラバスから、すぐ近くの吉浦や智花が弾いているチェロや真琴がいるヴィオラを。
そして舞台上では遠く離れる第一ヴァイオリンの先頭に座っている凛々子やその向こうのハープの速水、そしてまだ話したこともない管楽器や打楽器のパートまで千鶴は耳を傾ける。
神経を集中すればするほど、コントラバスを支える千鶴の身体からは無用なこわばりが抜けていった。
凛々子はヴァイオリンを弾きながら、オーケストラ全体の合奏の音が僅かずつ変わり始めていることに気付いた。
(中低音が少しずつ厚くなってきてる。千鶴さん、少しはオーケストラに慣れてくれたようね)
「アルルの女」第二組曲の「パストラール」の最初では、三人いるコントラバスの中から、鳴りきらない音が不純物のようにいくつか混ざって、それが僅かに合奏全体の響きを損ねていた。その小さな失敗から千鶴はしっかりと立ち直って、オーケストラの土台になる響きを作る低音の一員として立ち回れている。
(「あさがお園」での本番でもそうだったし、発表会の弦楽合奏でもしっかり弾けていたから心配はそこまでしていなかったけれど……千鶴さん、期待以上よ。これなら)
凛々子は指揮台に立っている三浦とオーケストラ全体を等分に目を配ると、弓を動かす幅を大きく取って「パストラール」の旋律の歩みを先導していく。
その旋律を支える和音の底に、間違いなく千鶴のコントラバスの音があった。まだどこかしら不器用さの抜けない、それでも力強い響きに、凛々子は内心でしっかりと頷いた。
(この千鶴さんの音、この星の宮ユースオーケストラの合奏に欲しかった音だわ。……そんなことを言葉にしたら、未乃梨さんにまた嫌な顔をされちゃうかしら)
オーケストラの最低音と最高音が、互いに影響されたように馴染んで響きがなめらかに動いているのを、真琴はヴィオラの席で感じていた。
(千鶴ちゃん、今日が初めてのオーケストラだっていうのにやるじゃないか。千鶴ちゃんを見つけてきてしっかり鍛え上げてきた凛々子も、ね)
真琴は、ヴィオラの前から三番目に当たる席から、第一ヴァイオリンの先頭でオーケストラ全体をまとめ上げる凛々子に視線を移す。
ソロの華麗さでは自分に今ひとつ及ばない凛々子が、合奏全体を見渡しながら時に指揮者の棒すらも引っ張ってヴァイオリンを弾く様を、真琴はひしと目と耳に焼き付けていく。
(……少し、悔しいかな。私に出来ないことをやってのける凛々子も、その凛々子が入れ込んでる千鶴ちゃんの音も)
音域も、舞台の上で演奏する場所も遠いはずの凛々子と千鶴が、どこかしらでつながっているように思えて、真琴はヴィオラを弾きながら歯噛みをしたくなってしまっていた。
「アルルの女」の合奏はつつがなく進んだ。「パストラール」に続く「間奏曲」も、千鶴は難なく自分のパートを弾きこなす。
「間奏曲」で第一ヴァイオリンからコントラバスまでの弦楽合奏が全て重なって演奏する重々しい旋律を弾きながら、波多野は隣で弾いている千鶴を一瞬だけ横目で見た。成人の男性と比べても十分に高い身長を千鶴は演奏に活かしきっている。
(流石は江崎さん、その体格がちょっと羨ましいかな。固さも取れてきたみたいだし、もう心配はなさそうだね)
一曲目の「パストラール」とは違って休みの少ない「間奏曲」を、千鶴はしっかりオーケストラの低音の一員として支えきっている。その千鶴の顔色が、少しだけ変わるのに波多野は気付いた。
その次の曲の「メヌエット」で、先ほどまで調子良くコントラバスを弾いていた千鶴が凍ったように動きを止める。
「メヌエット」で、全てのオーケストラが休止する中をハープに伴奏されたフルートが優美なソロを歌っていく。それを聴いている千鶴が、何故か少しだけうつむいていた。
(江崎さん……? どうしたんだろう?)
波多野は、隣の千鶴のどこか陰が差した表情に、内心で首を傾げるのだった。
(続く)




