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♯352

未乃梨の思い付きについ苦笑してしまう千鶴。文化祭の準備が進む一方で、千鶴の初めてのオーケストラの練習も近付いていて……?

 千鶴(ちづる)は、妙に張り切っている未乃梨(みのり)の顔を見ないようにして、コントラバスを支えたまま音楽室の時計を見上げた。そろそろ、下校時刻が近いはずだった。

 その千鶴の肩を、ぽんと軽く叩く者がいた。

江崎(えざき)さん、男装喫茶は期待してるよ?」

 上機嫌そうな流山(ながれやま)に、千鶴は力の入らない返事をする。

「……ええ、あの、はい」

「そうそう、接客のこととか来週のどっかの昼休みに説明するから、そのつもりでね。あのメイド服を着たいって言ってた子に、カッコいいとこ見せてあげなよ?」 

「あ、あの、未乃梨とはそんなんじゃ」

「隠さなくていいよ。ま、他のキャストには内緒にしとくから」

 どこまでも面白がる流山に、千鶴はぐったりと疲れ切ったようにうなだれるのだった。



 その日の夜、自室に引っ込んだ千鶴のスマホに、メッセージが届いていた。


 ――夜分に失礼するわね。練習、調子はどう?


凛々子(りりこ)さんからだ。そういえば、今度の土曜日」

 千鶴は、昨日家に届いた大きな封筒の中に入っていた楽譜と、星の宮ユースオーケストラの練習日程を見直す。初めて参加する練習が、もう近いのだった。

 事前にもらっていた「マイスタージンガー」と、封筒に入っていた他の楽譜を眺めながら、千鶴はメッセージの返事を打つ。

 

 ――マイスタージンガーはなんとかなるかも。あと、白鳥の湖とか、他の曲も多分大丈夫かなって

 ――頼もしいわね。文化祭のほうはどう?

 ――そっちもなんとか。未乃梨がなんかすごく張り切ってます


 そこまで書いて、千鶴は送信ボタンをタップした。未乃梨の詳しい様子を凛々子にまで伝えるのは、なぜか千鶴には気が引けた。

 凛々子からの返事は、思ったよりは早かった。


 ――では、今から文化祭が楽しみね。千鶴さんの男装、素敵なことになりそうね? そうそう、土曜日もよろしくね

 ――はい。ディアナホールですよね?

 ――学校の最寄り駅で待ち合わせましょうか。午後一時でいかが?

 ――了解です

 ――それじゃ、改札から出ないで待っててね。当日、宜しくお願いします


 千鶴は凛々子が話題を変えたことに何故か安心しつつ、スマホを置くと他のプログラムを見直す。

「こっちが『マイスタージンガー』で、こっちが確か『白鳥の湖』で、……こっちは?」

 例によって、英語ではない見慣れないアルファベットの綴りが最初のページの最上段に書かれているコントラバスのパート譜と、練習日程書き込まれている曲名を千鶴は何とか照らし合わせてみた。

「もう一曲のパート譜は……これ、『アルルの女』って曲かなあ……ん?」

 千鶴は、その「L'Arlésienne」という不思議な場所にアポストロフィが入った、どう発音するのか見当もつかない表題を見ながら、「アルルの女」という日本語訳に首をひねる。

(このタイトル、どっかで聞いたことが……?)



 その週の土曜日、千鶴はやや落ち着かない面持ちで凛々子を待った。

(学校の最寄り駅……平日だったら、朝にここで未乃梨と改札を出て、学校に向かうのに)

 時刻は待ち合わせの午後一時より十五分ほど早い。千鶴の今日の服装が、制服ではなく私服のシャツにチノパンという比較的ラフなものであることも、違和感に拍車をかけている気がする。

 約束の時間の五分余り前に、凛々子は駅の改札を通ってきた。いつものワインレッドのヴァイオリンケースと小さな手提げ鞄を携えてきた凛々子は、秋らしい七分袖のセーターにロングスカートと、千鶴には大人びているように見える服装で現れた。

「千鶴さん、お待たせ。それでは、行きましょうか」

「あ、はい。今日はよろしくお願いします」

 挨拶もそこそこに、千鶴はホームの階段を上る凛々子について行こうとした。そこで、凛々子は足を止める。

「千鶴さん、そういえば文化祭では執事さんみたいな服装をするのだったかしら?」

「えっと……そうですけど」

「それでは、エスコートをお願いしても?」

 軽く上品に微笑むと、凛々子は千鶴に左手を浮かせて見せる。千鶴は、凛々子に何度かそうしたように、その左手を右の掌に預かった。

 凛々子は、満足そうに千鶴に左手を委ねてきた。

「ありがとう。では、改めて」

「……はい」

 千鶴は、凛々子の手を預かったままホームの階段を上っていった。

 週末の昼下がりで往来の多い駅の中で、成人の男性と比べても遜色のない背丈の千鶴と、緩くウェーブの掛かった長い黒髪の凛々子は、少なからず注目を受けてしまう。

 普段より長く感じられたホームへの階段を登りきると、凛々子は少し背伸びをして千鶴の耳元でささやいた。

「周りの目が気になるかしら?」

「……それは、その、……まあ」

 千鶴は、まだ凛々子とつないだままの手を離すこともできず、曖昧に頷く。

「でも、オーケストラの本番では、今ホームにいるよりもっと沢山の人に見られるかもしれないわね?」

「……そういえば」

 千鶴は、以前に聴きにいった星の宮ユースオーケストラの演奏会を思い出して、背筋をしゃんと伸ばす。

(あの時、コントラバスの本条(ほんじょう)先生も堂々としてたっけ)

 これから始まる初めてのオーケストラの練習に向けて少しずつ高まる緊張に、千鶴は何とか立ち向かおうとしていた。


(続く)


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