♯350
放課後の文化祭の練習に、これから始まる星の宮ユースオーケストラの練習参加。何かと忙しくなりそうな千鶴は……。
「マイ・フェイヴァリット・シングス」の合わせ練習は、ジャズに初めて挑戦する千鶴を交えていたにしては、意外にスムーズに進んだ。
ギターを抱えたまま、織田が千鶴にくすくすと笑顔を向ける。
「千鶴ちゃん、初めてにしちゃいいベース弾けてたよ。これで、楽譜を作らないでコードネームだけ見ながら弾けたら立派にジャズのセッションもいけそうだね?」
サックスを首からストラップで提げている高森も、「うんうん」と頷いた。
「しっかり基礎をやってきたのが効いてるねえ。ジャズは置いといても、来年のコンクールはちょい楽しみかな?」
「あ、ありがとうございます」
千鶴は、高森とわざわざ他校からギターを持参して弾きに来てくれた織田に頭を下げた。
吹奏楽部員でありながら部活外でジャズやポップスも演奏する高森や、他校の生徒で所属する部活が吹奏楽部とは名ばかりの軽音楽部に近い織田が自分を褒めてくれたのが、千鶴には意外に嬉しい。
その千鶴の隣で、フルートを手にした未乃梨が自慢げに胸を張る。
「千鶴、この前なんか発表会でソロで弦バスを弾いたぐらいだもん。これからどんどん上手くなるわよ?」
「もう、未乃梨ったら。私、四月にコントラバスを始めたばっかりなのに」
千鶴は楽器を支えたまま恥ずかしそうに頭を掻いた。未乃梨が、その千鶴の顔を下からやや上目遣いで見上げてくる。
「あと半年以上あるじゃない。時間はいっぱいあるでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
千鶴はぐいぐい迫る未乃梨に困り笑いをするしかなかった。ふと、高森と織田のどちらかが、何か考え込むような表情をしているような気がした。
「ただいまー」
帰宅して玄関から上がろうとした千鶴を、台所に立っている母親が呼び止めた。
「おかえり。千鶴、何か届いてるわよ。オーケストラから」
母親は、切手が貼られた書類が折らずに入る大きな封筒を千鶴に差し出した。
封筒の大きさと重みに、千鶴は中身になんとはなしの見当がついた。
「ありがと。あ、これ多分、楽譜かな」
「楽団の発表会っていうか音楽会、秋だっけ? お父さんも楽しみにしてたわよ」
「そうなんだ。……その父さんは?」
封筒を受け取った千鶴に、母親は眉をひそめる。
「あんた、リビングのカレンダー見てないの? 今日、お仕事で帰るの遅いのよ」
「あ……ごめん」
千鶴はばつの悪い顔で部屋に引っ込むと、部屋着に着替えてから「星の宮ユースオーケストラ事務局」と書かれた封筒を開けた。
その中には、コントラバスのパート譜と、オーケストラの練習日程が書かれた紙が入っている。
「そういや、オーディションの時に吉浦先生がすぐ次の練習があるって言ってたっけ」
オーケストラの練習は演奏会の直前を除いて二週間に一回ほどで、吹奏楽部のように毎日練習があるのとは様子が違いそうだった。
「……これ、書いとかなきゃ」
千鶴はリビングに降りると、壁のカレンダーにユースオーケストラの練習日を書き込もうとして、何か書くものを探そうとした。
「千鶴、あんたの予定を書くなら黒はやめなさいね。お父さんの用事と紛れちゃうから」
夕飯のおかずの乗った大皿を運んでくる母親が、カレンダーの前に立っている千鶴の背中声を掛けて通り過ぎていく。煮付けた魚の匂いに、千鶴は胃袋が少しくすぐられたような気がした。
「はーい。……でも、色ペンなんてあったっけ?」
父親がお世辞にも綺麗とは言えない字で今日の日付に「午後から出向 上がり九時半」と書き込んだカレンダーの、その近くにあるペン立てには、黒いサインペンの他に、緑のマーカーと赤のペンが入っている。
千鶴は、それを見てぼんやりと思い出したことがあった。
(そういえば。未乃梨のフルートのケースって緑色の可愛いやつだし、凛々子さんのヴァイオリンケースは赤紫でお洒落なやつだよね。……私が部活で使ってるコントラバスが入ってる寝袋みたいなケース、そういうのだったらいいのになあ)
そんなとりとめのないことを考えながら、千鶴は赤いペンを取り上げると、出来るだけ丁寧な字で、カレンダーに二箇所「千鶴 星の宮練習」と書き込んだ。
その日の夜は、千鶴は未乃梨と遅くまでスマホのメッセージをやり取りして過ごした。
――今日の練習、千鶴、カッコよかったよ! 明日の放課後も楽しみだね!
――うん。ジャズをやるのは初めてだけど、瑠衣さんが楽譜を作ってくれたおかげでなんとかなりそう
織田が作ったベースパートの楽譜は、恐らく千鶴のために易しいフレーズが書かれていることは何となく想像がついた。
――瑠衣さん、アレンジも作れてギターもあんなに上手いし、凄いね。私も頑張らなきゃ。ところでさ
はしゃぎ声が聞こえてきそうな未乃梨のメッセージの文面がそこで途切れる。
(うん? 何だろ?)
スマホの画面を見つめながら、千鶴は小さく欠伸をひとつ漏らす。放課後の練習が意外に疲れていたせいか、夕飯に出たブリのアラ煮でついつい茶碗飯を二杯お代わりしてしまったのが原因かはわからない。
千鶴は充電器につないだスマホを手に持ったまま、ゆっくりとまどろんでいった。
(続く)




