♯35
パッヘルベルの「カノン」で千鶴がたどり着いた場所。楽しげに美しく繰り広げられる「カノン」の中で、未乃梨には少し違う思いも感じていて……。
千鶴は、すっかり覚えてしまったパッヘルベルの「カノン」の、あの二小節の繰り返しをコントラバスで弾きながら、他の四人の音をひたすら聴いていた。
千鶴のコントラバスの低音に重なる、智花のチェロの刺繍のような分散和音。そして、追いかけ合い絡み合う、未乃梨のフルートの真っ直ぐでなめらかな音と、凛々子のヴァイオリンの甘やかで誘うような音と、瑞香のヴィオラのフルートやヴァイオリンより明らかに低くて丸い、穏やかな音。四人の音が、千鶴の意識を引っ張っていた。
智花は、メモ書き程度に音符がいくつか書き足されただけの、千鶴と全く同じ譜面を見ながらチェロを弾いていた。その分散和音はしっかりとした足取りで、少ない弓の幅の動きできびきびと心地よく進んだ。つられて、智花の分散和音の頭に重なっているコントラバスのテンポが、ギアを上げるように少し速まった。
千鶴は、朝に未乃梨と合わせた時の弾き方を思い出した。弓を持つ手に余計な力を入れずに、四分音符の弾き始めをはっきり出した、音の粒が立った弾き方は、智花のチェロと噛み合った。
智花が、いっとき横目で千鶴を見て小さく頷いた。それを見た瑞香のヴィオラと凛々子のヴァイオリンが、僅かに速まったテンポに合わせて、雨上がりに一斉に野原の花が咲き出すように、軽快に踊りだした。
瑞香も凛々子も、楽譜に書いてある音符を無視して好き勝手に弾いてはいなかった。ただ二人の弓は、僅かとはいえ速まったテンポに合わせて弾むような動きが生まれていた。
千鶴は、吹奏楽部の練習で木管だけの分奏に自分が参加したときのことを思い出した。
(そういえば子安先生、確か――)
――合奏中に随分よそ見をしていたようですが、――それは、弦バスを弾く人の特権です。――練習中はもっとよそ見をしてみて下さい――
千鶴の脳裏に、分奏で子安が言っていたことが急に思い出された。
コントラバスを弾いている千鶴の目の前で、退屈になりかねないパッヘルベルの「カノン」の旋律が、凛々子と瑞香の手で踊るような楽しさを帯びていた。そしてそれは、真っ直ぐでなめらかではあってもどこか固い未乃梨のフルートも、少しずつ巻き込み始めていた。
(仙道先輩も瑞香さんも智花さんも素敵だけど、未乃梨のフルートも、綺麗だよ)
凛々子のヴァイオリンと瑞香のヴィオラは未乃梨のフルートを、まるで箱入りの令嬢の手を引いて祭りに連れ出すお転婆な町娘のように、踊るような動きにすっかり変わった「カノン」の流れに引き込んだ。未乃梨と二人で合わせていた時に欠けているように見えたものが、千鶴の前に姿を表した気がした。
(この曲、やっぱり全員で合わせて初めて全体が見えてくる曲なんだ。こんなに楽しい曲だったなんて……!)
追いかけ合い、絡み合う未乃梨と凛々子と瑞香の三者三様の旋律に自分もコントラバスの低音で重なりながら、千鶴は子安の言っていたことをもう一度思い出した。
(コントラバスの特権って、こうやって、合わせてるみんなの凄いところを聴きながら、演奏を引っ張って行けることなの……?)
未乃梨は、自分の演奏に戸惑っていた。
(パッヘルベルの「カノン」って、もっと静かに聴かせるような曲じゃないの……? こんな風に自由に演奏するものなの……?)
千鶴は自分を邪魔しないあのリズムの粒が立った弾き方をしていたが、それが今日初めて合わせる智花のチェロが弾く分散和音をいつの間にか噛み合うようになっていった。
それにつれてテンポが僅かに速まって、凛々子のヴァイオリンと瑞香のヴィオラの演奏が踊るようなスタイルに変わっていく。
いつしか、未乃梨のフルートの吹き方も、練習してきた形よりずっと軽くて音を残さない、ダンスの曲でもやるような吹き方につられてしまっていた。
未乃梨は、思わずコントラバスを弾いている千鶴の方に目をやった。千鶴は、延々と繰り返しの続く二小節を、もはや楽譜すら見ずに周りを見渡しながらコントラバスを弾いていた。
チェロで分散和音を弾きながらけしかけるように笑う智花。
ヴィオラの丸い豊かな響きを遊ぶように踊らせる瑞香。
ヴァイオリンの甘やかな音を歌わせながら、時折誘うように上体を揺らして弾く凛々子。
千鶴は、弦楽器の三人と視線を合わせながら、自分も楽しげにコントラバスを弾いていた。その千鶴の視線は、未乃梨にも向けられていた。
(千鶴、やっぱり私のことだけ、見てくれないの……?)
未乃梨はそう思いかけて千鶴から視線を逸らしそうになって、思い直した。
(ううん、千鶴はちゃんと私を見てくれてる。だったら、私も応えなきゃ)
未乃梨のフルートが、自分では今まで吹いたことのないような軽快なタッチで「カノン」の旋律を描き始めた。未乃梨も、千鶴だけではなく、いつしか凛々子や瑞香や智花を見てフルートを吹いていた。「カノン」が進むにつれて、時折凛々子のヴァイオリンの演奏のようにフルートを吹きながら上体を揺らしてしまえるのが、未乃梨には何故か楽しくなってきていた。
(……これで、千鶴が、私だけを見てくれたらいいのに……)
その思いだけが、未乃梨の心の奥底に、砂粒のような小ささで残っていた。
(続く)




