♯349
初めて参加するジャズの合わせで、どうにも上手く演奏できない千鶴。
そんな彼女が、他のメンバーの演奏を見てあることに気付いて……?
千鶴は「マイ・フェイヴァリット・シングス」の合わせ練習が始まると、必死で高森のサックスや織田のギターや未乃梨のフルートについていった。
目の前の譜面台に置かれた、織田が作ってきたベースのパート譜は、ほとんど一小節に四分音符が頭か途中に一つ置かれたり、三つずつ連続してビートを作ったりする単純な三拍子ではあった。
それをひたすら右手でコントラバスの弦を直接はじくピッツィカートで演奏していくという、ある意味では単純な譜面に千鶴は妙に厄介なものを感じながら弾いていく。
(弓で弾くときみたいに、音が掠れたり右手の圧力を考えたりしなくていいけど、おんなじようにずっと弦をはじいていくのがこんなに難しいなんて……!)
太いコントラバスの弦をはじき続ける千鶴の右手は、時折音を鳴らし損ねそうになったり、他の三人に遅れそうになったりしてしまう。鉛筆の芯より太くて頑丈な弦をはじいているうちに、千鶴の右手の指先は少しずつ擦り切れて、痛みが走っていく。
「マイ・フェイヴァリット・シングス」の最初のテーマを未乃梨のフルートが吹き終わる辺りで、千鶴は自分と同じように弦を掻き鳴らす織田のギターの右手を見た。
(あれ? 瑠衣さん、右の手首あたりをギターの胴体にくっつけるみたいにして弾いてる? ギターの弦をはじく三角のやつもあんまり動かしてないし?)
椅子に座ってギターを弾く織田は、右腕をまるで楽器の胴体を抱え込むように添わせて弾いている。千鶴が名前を知らない右手のピックも、音を出したあとも弦に吸い付いたようにその場に留まっていた。
(クラシックとか吹奏楽の時みたいじゃなく、ああいう風に私もコントラバスのピッツィカートを弾けば……?)
そう考えた千鶴の、右手がすっと動きを変えた。
合わせ練習が始まってからしばらくして、未乃梨のテーマから高森のサックスがアドリブを始める辺りで織田は内心でにっこりと微笑んだ。
(へえ? 千鶴ちゃん、やるじゃん?)
千鶴のリズムキープが少し怪しかったコントラバスのピッツィカートが、少しずつ安定し始めている。
遅れや鳴らし損ねが減りはじめた千鶴のピッツィカートの右手の動作が変わっていることに、織田は気付いた。
(私の方を見てると思ったら。……ラクしてビートをつなげる方法、見つけたみたいだね?)
千鶴は、右手の親指の先をコントラバスの指板の縁に当てて弾くようになっていた。コントラバスのギターとは比べ物にならないほど長くて太い弦も、人差し指や中指の先だけではなく指の半分ほどを弦に掛けてはじく弾き方に変わりつつあった。
(まだ不格好だけど、ジャズのベースの弾き方としちゃ悪くないじゃないか。面白い!)
織田は自分が弾くバッキングのフレーズに低い方の音を付け足した。織田のギターが千鶴のコントラバスのピッツィカートと絡んで、二人の音がひとつの楽器のようにジャズワルツの思わせぶりに揺らぐ三拍子を描いていく。
アドリブを吹いていた高森も、千鶴の演奏が少しずつ変わりだしていることに感づいた。
(なるほど。瑠衣のギターを見て何か考えたね?)
今日初めてジャズを弾いたはずの千鶴のコントラバスは、確かにどこか不器用でぎこちなく演奏してはいた。それでも、三拍子のビートが明らかに整い出していることは、ソロを取っている高森にもはっきりと分かっている。
その高森が、千鶴に合わせて吹きながら気付いたことがあった。
(江崎さん、左手のポジションに迷いがない……スケールか何か、きっちり基礎を固めてきたね?)
千鶴の演奏は、右手のぎこちなさこそ残るものの音程を決める左手はしっかりと押さえられている。ギターやエレキベースとは比較にならない大きさのコントラバスを、千鶴は揺らぎもせずに構えていた。
(……仙道さんが基礎からしっかり教えてくれたお陰だよね。江崎さんが小阪さんとくっつく方に賭けてる身としては、ちょっと困るとこだけど)
千鶴のコントラバスと織田のギターの音がしっかり混ざっていくのを楽しみながら、高森は自分のアドリブを爽快な気持ちで吹いた。
アドリブを吹く高森に主役をバトンタッチしてから、未乃梨は千鶴のコントラバスをそっと横目で見た。
千鶴の演奏が整っていく様子は、未乃梨にも明らかだった。
(千鶴、ジャズのベースもいい感じじゃない? これ、文化祭の本番は執事さんみたいな衣装で弾くんだよね!?)
ふと、千鶴がメンズのタキシードやジャケットに身を包んでコントラバスを弾く想像が、未乃梨の脳裏をよぎる。それは、発表会で未乃梨が伴奏をした時の、フレンチスリーブのブラウスと黒の長いフレアスカートに身を包んだ千鶴と同じぐらい、未乃梨の印象に残りそうだった。
(千鶴の一番かっこいいところ、もっと一番近くで見たい。やっぱり、千鶴は凛々子さんには渡せないよ……!)
高森のアドリブが終わって、未乃梨はフルートで再び「マイ・フェイヴァリット・シングス」のテーマをフルートで吹き始める。
最初よりはるかに整った千鶴のコントラバスのビートに、未乃梨はどこまでも愉快な気持ちで乗っかっていった。
(続く)




