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♯346

オーケストラに入った後のことで吉浦に釘を差される千鶴と、オーディションに通ったことを知った凛々子や未乃梨と。

それぞれに、これから未知のことが降りかかりそうで……?

 ディアナホールのロビーで、千鶴(ちづる)吉浦(よしうら)に改めてお辞儀をした。

「吉浦先生、本日はありがとうございました」

 並の男子を軽く追い越す背丈の千鶴が丁寧に振る舞うのが意外だったのか、吉浦は口角が微かに緩んで上がる。

「まあ。でも、これからがスタートですから、しっかり学校でも練習していらっしゃい。ところで、学校ではどんな具合で練習をしているのかしら?」

「朝、授業が始まる前に音楽室でやったり、放課後に空き教室で練習して、その時に凛々子(りりこ)さんに見てもらったりしてます」

 オーディションでの緊張が解けて、千鶴はしっかりと受け答える。

 千鶴の返事に、吉浦は「ふむ」とだけ相槌を打った。

「練習時間は充分といったところかしら。では、学校で練習する時は今まで以上に自分の音がどう響くか意識なさいね。コントラバスはそれが大事な楽器なのですよ」

「自分の音の響き……ですか?」

「ええ。あなたの場合、発表会の練習でもそうだったけれど、不必要に大きな音を鳴らさないように、ね」

「……もしかして、今日の私の演奏も、いけませんでしたか?」

 千鶴は、その長身を縮こまらせそうになった。吉浦はやや渋い顔をして続ける。

「そうね、今日のあなたの音は少し大きすぎたかもしれないわね。でも、それは合奏練習で調整していけばいいし、オーケストラの中で色んなことを沢山教わると思うから、しっかり勉強しなければいけませんよ。あと」

「……あの、何でしょうか?」

 千鶴は、吉浦の顔を恐る恐る見た。吉浦は、先ほどまでの渋い表情を上品にほころばせている。

「今日は、初めて会った伴奏のピアニストといきなり一緒に弾いてもらったわけだけれど。あなた、ちゃんとアンサンブルが出来てたわよ? 『マイスタージンガー』で、テンポが変わったのにちゃんと対応していたもの」

「あ、ありがとうございます」

 素直に礼を言う千鶴に、吉浦は穏やかではあってもあくまで生真面目に告げる。

「それでは江崎(えざき)さん、来週から早速練習だから、宜しくお願いしますね。では」

「こちらこそ、宜しくお願いします」

 踵を返す吉浦に、千鶴はもう一度、深々と頭を下げた。


 その日の夕方、ディアナホールを出た凛々子は駅のホームでスマホに届いていたメッセージを見返した。

 差し出し人は千鶴で、「オーディション、受かりました! 次の練習から宜しくお願いします!」と、千鶴の元気な声が聞こえてきそうな文面が簡潔に書かれている。

「まあ。千鶴さんたら」

 思わず笑みをこぼす凛々子の背後から、真琴(まこと)がスマホの画面を覗き込む。

「千鶴ちゃんからも報告、あったんだね。凛々子、嬉しそうじゃん?」

「それはもう、ね。四月から教えて来たわけだし、うちのオケのコントラバスがこれから増えるんですもの」

「本当に、それだけ?」

 真琴が、くすりと笑ってヴィオラケースを担いだまま肩をすくめる。

「千鶴ちゃんのこと、ずいぶん気に入ってるみたいじゃない?」

「真琴、嫉妬でもしてるの? 意外ね」

 凛々子は緩くウェーブの掛かった長い黒髪を揺らして真琴の顔を見上げる。

 真琴は、凛々子の顔をじっと見つめ返した。

「今まで一緒にレッスンを受けてきた凛々子が、楽器を始めたばっかりの可愛くてイケメンな女の子にかかりっきりになってるんだもん? そりゃあ気になるよ」

「私だって、ちょっと驚いてるわ。あんなに上達したこともそうだし、千鶴さんのそれ以外の部分も、ね」

「へえ。それ以外って、何?」

「真琴には内緒。絶対に教えてあげないわ」

 凛々子は、毒気のないいたずらっぽい笑顔を真琴に向けた。真琴は呆れたように溜め息をわざとついてみせる。

「全く。そんなことを言ってたら、未乃梨(みのり)ちゃんが黙ってはいないかもよ?」

「どうかしら。未乃梨さんは千鶴さんと学年もクラスも同じで、私と違っていつも一緒にいられるようなものだけれど?」

 明らかに形だけとぼけている凛々子に、真琴は困ったように笑うしかなかった。


 同じ頃、千鶴からのメッセージを見て、未乃梨は思わず手を口元にやった。

(「オーディションに受かった」って……千鶴が、凛々子さんのオーケストラに?)

 未乃梨は、千鶴のメッセージを見ながら、唇を真一文字にぎゅっと結ぶ。

(これから、千鶴が学校の外に練習しに行く機会が増えて、弦バスもどんどん上達して、それから……)

 そこまで思いを巡らせてから、未乃梨は自室の床にぺたりと座り込む。

(千鶴が私の知らないところで、沢山活躍して、その近くには凛々子さんもいて……でも)

 未乃梨は、床に座り込んでも表情を辛うじて沈ませることはしなかった。

(私だって、凛々子さんが知らない千鶴をこれからいっぱい見るんだもの。文化祭で男装する千鶴も、私と一緒にジャズをやる千鶴も、私のものなんだから。……私だって、千鶴に振り向いてもらえるんだから) 

 ひょいと跳ねるように、未乃梨は立ち上がって机の上の楽譜を見た。そこには、何ヶ所も書き込みをした楽譜がある。

高森(たかもり)先輩とか瑠衣(るい)さんだって、応援してくれてるんだもん。私だって)

 未乃梨は窓の外がすっかり夕暮れに沈んでいるのにも気付かずに、そろそろ薄暗くなり始めた部屋の中で、「マイ・フェイヴァリット・シングス」の楽譜をもう一度見直した。


(続く)

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