♯345
オーディションで、ソロに続いて「マイスタージンガー」のコントラバスパートを弾くように指示される千鶴。意を決して弾き始めた千鶴に、予想だにしなかったことが……?
「マイスタージンガー」を弾いている途中で入ってきたピアノに、千鶴は意外に思っても今度は怯まなかった。
(今まで、部活でもそれ以外でも色んな形で他の人と合わせてきたんだ。今更びっくりすることなんか、ない)
千鶴が弾く重々しい「マイスタージンガー」のテーマに、アップライトピアノに向かう女性が右手でどこか夢見がちにすら思える旋律を重ねていく。
ピアノの女性は、右手で弾くその旋律と、千鶴がコントラバスの低音で弾くテーマの間を、左手で小躍りするようなフレーズで満たして、高音域と低音域から向かい合う二つのテーマを刺繍を縫い付けるように彩っていった。
千鶴はそのピアノの動きを耳で捉えながら、夢中になってコントラバスを弾いた。
コントラバスのパート譜に書かれた「マイスタージンガー」のテーマは、歩みを重ねながら高みへと上っていく。それに沿ってピアノが描く音の連なりが盛り上がっていき、ついにはファンファーレのような華やかな和音がピアノから描き出された。
(ここから、すっごく盛り上がるところだ……!)
千鶴はそのファンファーレのような和音に呼吸を合わせると、八分音符の音階で下っていくフレーズに入った。石造りの大きな城の中で居並ぶ騎士たちのような堂々とした響きが生まれ、コントラバスとピアノだけの「マイスタージンガー」は更に盛り上がっていく。
八分音符で下ってからそのままのリズムで歩んでいくフレーズに入って、千鶴のコントラバスの音は響きを増した。たった一人で部活の合奏どころか大人数のオーケストラに太刀打ち出来そうな錯覚すらしそうな分厚く豊かな響きを、千鶴はコントラバスから引き出している。
その中で何ヶ所か弓が弦を振動させ損ねて軋んだような音が出てしまったものの、コントラバスの胴体から生まれる響きがその雑音をすっかり覆って、音楽の流れを強靭に支えた。
ピアノの女性が弾きながらいっとき顔を上げて、千鶴を見た。千鶴も、ピアノの女性の挙動に気付いて、その女性の顔を見た。
「マイスタージンガー」のテンポがやや遅くなって、響きが更に大掛かりになっていく。千鶴が弾くコントラバスのパートも、十六分音符を含む細かな動きに移っているものの、千鶴はまるで苦にすることなく弾けていた。
(練習よりテンポがちょっと遅いのもあるけど、凛々子さんに教わった音階の課題だって出来たんだ、いける!)
千鶴の弓さばきが大きくなって、十六音符と八分音符からなるコントラバスのフレーズを甲冑を着けた騎士が歩むような力強さで描き出した。そのまま、最後の和音までピアノに現れる金管楽器のファンファーレのような華やかな響きとともに終止へと向かっていくかに思われた。
結びに入る少し前に、座って千鶴の演奏を聴いていた本条がゆっくりと頷いて、右手を軽く上げた。丁度、千鶴のコントラバスのパートが十六分音符の連続を抜けた辺りだった。
「そこまでで結構です」
千鶴が弓を止めて、小練習室を満たしていたコントラバスとピアノの響きが潮が退いていくように消える。
(ここまで、か……どうなるんだろう)
千鶴はコントラバスを支えたまま、固まったように立ち尽くして、並んで座っている本条と吉浦を見た。
吉浦と本条の表情には、険しいものは見えなかった。その吉浦に、ピアノの女性が顔を向けて何事か頷いている。三人の年長の女性の中で、最初に口を開いたのは、本条だった。
「さて、私が何か言うまでもないようですが」
その言葉を受けて、オーディションでずっと千鶴に合わせてピアノを弾いていた女性も、手を膝に置いて相槌を打った。
「吉浦先生に本条先生、もうお決まりのようですね?」
最後に吉浦が座っていた椅子からゆっくりと立ち上がる。
「江崎千鶴さん、あなたの星の宮ユースオーケストラへの入団を認めます。これから、あなたが学ぶべきことは沢山ありますが、それをしっかり身に付けていくように」
千鶴は一秒ほど沈黙してから、コントラバスを支えながら何とかお辞儀をした。
「ありがとうございます」
本条が、その千鶴ににっと笑顔を向けた。
「江崎さん、まだまだ荒削りだけど君の音はコントラバス奏者としちゃそろそろ一人前だよ。これから、一緒に沢山勉強していきましょう」
「はい!」
千鶴は、もう一度コントラバスを支えたまま、深々とお辞儀をした。
ディアナホールの大練習室でヴァイオリンを弾いている凛々子は、年長の女性二人が明るい声で話しながら入ってくることに気付いて弾く手を止めた。ヴィオラをさらっていた真琴も、顔を上げる。
「本条先生に……速水先生。おはようございます」
「仙道さんに有坂さん、おはよう。オーディションだけど、新団員誕生だよ。江崎さん、合格だ」
「本当ですか?」
声が喜色を帯びる凛々子に、真琴が小首を傾げる。
「でも、何で速水先生が一緒なんですか? オーディションを見るにしても、吉浦先生ならともかく、専門は全然違うんじゃ?」
「そういえば、……速水先生がどうしてこんな早い時間に? 今日の練習、参加するのは後半では?」
不思議がる凛々子に、速水は感じのいい笑顔を向ける。
「本条先生と吉浦先生にお願いされて、ちょっとオーディションでお手伝いをね。江崎さんのピアノ伴奏をぶっつけでやらせてもらったけれど、彼女、楽器歴半年なのに堂々と弾いてたわよ。一緒に弾いてて、楽しかったわ」
「千鶴さんが、そんな演奏を?」
「ええ。オーケストラだと私はコントラバスから離れちゃうけど、これは今から楽しみね?」
「ま、これからしっかり練習してもらうけどね。次の星の宮の練習、コンバスは鍛えがいがありそうだね」
速水と笑い合う本条に、凛々子も、真琴も微笑を浮かべた。
(続く)




