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♯344

そして始まる星の宮ユースオーケストラのオーディション。慣れない場所でどこか怯んでいた千鶴のコントラバスの演奏は……!?

 千鶴(ちづる)がコントラバスの調弦を済ませると、そのピアノの女性はにこやかに声をかけてきた。

「オーディションですけれど、ソロでやる曲は『オンブラ・マイ・フ』でお間違いないかしら?」

「……あ、はい」

 にこやかで穏やかなその女性に気圧されつつ、千鶴が頷くと、女性はピアノに座ったまま更に尋ねてくる。小柄でジャケットにやや長めのスカートというその飾り気のない服装は、小学校の音楽の教師のような生真面目さを感じさせた。

「では、オーディションのソロは私が伴奏をしますので、宜しくお願いしますね。調はどれで演奏なさるの?」

「えっと、シャープ二つなので……ニ長調です」

「よろしい。では、私が前奏を途中から弾きますので、その後に入って下さい」

 自分の楽譜を慌てて見直す千鶴を、ピアノの女性は穏やかな表情のまま鍵盤を軽く押さえて和音の流れを確かめている。

 ピアノの譜面台に楽譜すら置いていないその女性に、千鶴は早くも面食らっていた。

(伴奏がつくの? しかも、たった今会った人ばかりの人に、伴奏をしてもらうの?)

 混乱が顔に出そうになる千鶴に、ピアノの女性は更に続けた。

「オーディションの審査は、吉浦(よしうら)先生と本条(ほんじょう)先生がします。もうまもなくいらっしゃるから、そのままお待ち下さいね」

 どこまでも穏やかなピアノの女性に、千鶴は妙な居心地の悪さを感じる。

(私、ここに来たの、場違いだったかな……)

 千鶴は、今いるディアナホールの小練習室を改めて見回した。

 小練習室の広さは紫ヶ丘(ゆかりがおか)高校の音楽室より一回り狭いぐらいで、練習室の頭につく「小」というのはオーケストラのような大掛かりな合奏には向かない、という程度の意味のようではある。

 狭さを感じない室内には、女性が座っている壁際のアップライトピアノのほかには千鶴の目の前の折り畳みではないしっかりとした譜面台と、長机の向こうに椅子が二脚置かれているだけだった。

 所在なさげに部屋の中を見回す千鶴の背後で、小練習室の扉が開く。

 入ってきた吉浦と本条の顔を見て、千鶴はわずかにほっと落ち着けたような気がした。少しは千鶴が顔を見知っている二人は、そのまま椅子に座って千鶴に向き直る。

 吉浦が、最初に口を開いた。

「それでは、オーディションを始めます。まずは、指名とと希望パートをお願いします」

江崎(えざき)千鶴、です。希望は、コントラバスです。よろしくお願いします」

 途中で声をつっかえさせながら、千鶴は吉浦に何とか答える。吉浦は発表会の指導の時のように真面目に引き締めた表情のままで、その隣に座る本条も、以前に星の宮ユースオーケストラの練習の見学の時のような気さくな様子は引っ込んでいた。

 次に本条が千鶴に問うてきた。

「では、最初にソロの演奏をお願いします。江崎さん、作曲者と曲名を」

「ヘンデル作曲の、『オンブラ・マイ・フ』です」

 千鶴は何とか応えると、コントラバスを構える。ピアノの女性が一度千鶴を見て、『オンブラ・マイ・フ』の前奏を後半から弾き始めた。


 千鶴は、『オンブラ・マイ・フ』を弾きながらピアノの女性に違和感を感じざるを得なかった。その違和感は、奇妙なことに千鶴にとって好ましい部類に属している。

(あれ? この人の弾くピアノ伴奏、未乃梨(みのり)が弾いてるのより音が小さいのに何かはっきり聴こえるし、音が凄く綺麗につながってる……?)

 先ほど会ったばかりの女性が弾くピアノ伴奏は、テンポを打ち合わせたわけでもないのに前奏の後で入ってきた千鶴のコントラバスにしっかりと合わせてきた。ピアノ伴奏が、千鶴の演奏に柔らかなタッチで重なって、曲のくつろいだ色合いを発表会の時以上に浮かび上がらせていく。

 千鶴が「オンブラ・マイ・フ」のソロを弾き終えると、吉浦と本条の表情に明らかに納得したような様子が浮かぶ。本条に至っては、頷いたように小さく顔を動かしていて、それが千鶴の怯みかけた心持ちを立て直させた。

 本条が、千鶴に次の課題を告げる。

「それでは、今から指定する場所を弾いてもらいます。『マイスタージンガー』前奏曲の、ハ長調に戻ってコントラバスが主題を受け持つところから、私が止めるまで」 

「はい」

 千鶴は、今度はしっかりと返事をして、譜面台に置いた「マイスタージンガー」の楽譜を開いて、該当するページをめくる。

(ここ、確か凛々子(りりこ)さんに教わりながら、一緒にヴァイオリンを弾いてもらった場所だ。それなら……!)

 千鶴はコントラバスを構え直すと、最初の二分音符の(ツェー)をこれ以上ないほど堂々と弾き出した。先ほどの「オンブラ・マイ・フ」より重く芯の通った響きがコントラバスから生まれて、小練習室の床や天井すらも震えさせそうなほど響いていく。

 ふと、千鶴は聴き覚えのある旋律が自分が弾いているコントラバスの音に重なってくることに気付いた。

(あれ? これって、学校で練習してる時に凛々子さんがヴァイオリンで弾いてたやつ……?)

 千鶴に続いて、「オンブラ・マイ・フ」で伴奏を弾いた女性が、再びピアノで「マイスタージンガー」を千鶴と一緒に弾き始めていた。

 コントラバスのパート譜だけでは見えてこなかった分厚い合奏の輪郭が、ピアノだけの音色で大きな画用紙に鉛筆でデッサンを描き出すように組み上げられていく。

(……ええ? この曲も、ピアノと一緒に? ……やってみるか!)

 千鶴は、ピアノから浮かび上がるワーグナーの音楽の輪郭の中へと飛び込んでいった。

 

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