♯340
文化祭の衣装合わせに千鶴が連れて行かれるその頃。
凛々子と未乃梨はそれぞれの形で音楽を通して千鶴のことを思って……。
慌ただしく去っていった未乃梨の背中を、志之は呆れたように見送った。
「みのりん、沈んだり元気になったり忙しいね?」
「うん、まあ、そうかも」
そろそろ肩に届きそうな髪の襟足を掻く千鶴の脇腹を、志之は軽く肘で小突いてきた。
「原因、千鶴っちじゃないの? みのりんと付き合っちゃえばいいのにさ」
「……それは、その、色々あって」
千鶴は妙に歯切れ悪く口籠った。未乃梨の気持ちを知りながら、何も片付いていないことはあまり考えたくないことではあった。
曖昧な表情をした並の男子よりずっと長身の千鶴の背中を、彼女に届かなくともバレー部らしく十分に背丈のある志之が教室の外に押し出す。
「さて、参りますか。ま、折角だし千鶴っちも楽しもうよ?」
「う、うん?」
運動部らしい志之の腕力に押されて、千鶴は廊下をおぼつかない足取りで歩いていった。
誰の姿もない、いつもの空き教室の机にヴァイオリンケースを置くと、凛々子はふうっと息をついた。
(今頃、千鶴さんはバレー部で衣装合わせかしら。確か、未乃梨さんも付き添うと言っていたような)
いつもならコントラバスの準備をしている千鶴は、今頃女子バレー部員にどんな衣装を着せられているのやらと思うと、凛々子には少し後悔の念すら湧いてくる。
(私もついていけば良かったかも、ね。千鶴さんの男装なんて、似合うに決まってるもの。……だけど)
凛々子はふとスマホのフォルダに入れた最近の画像に目を落とす。そこには、先日の発表会で撮った、白いフレンチスリーブのブラウスに黒いロング丈のフレアスカートの衣装の千鶴の画像が収められている。
(私としては、こういう長いスカートを穿いた千鶴さんも素敵だと思うのよね。最近髪も伸びてきたし――)
物思いを巡らせる凛々子を、明滅するスマホの画面が現実に引き戻す。着信したメッセージの送り主に、凛々子は少し目を見開いた。
(あら、本条先生?)
――お疲れ様。発表会の動画、見たよ。江崎さん、四月からコンバス始めたにしちゃいい出来だったね?
――お疲れ様です。私も、ちょっと驚いてます。ソロも弦楽合奏も悪くなかったんじゃないでしょうか
――体格に恵まれてるのもあるし、江崎さんの頑張りもあったと思うけど、やっぱり仙道さんがしっかり練習を見てあげたのも大きいかな。普通、部活の吹奏楽じゃコンバスは弦楽器奏者の指導なんて受けられないもんね。ところで、
そこで、本条からのメッセージが一旦途切れた。凛々子は、小首を傾げて「何でしょう?」と文章を打ちかける。
凛々子が返信をするよりずっと早く、本条からのメッセージの続きが届く。
――今度の江崎さんのオーディション、仕上がりはどう? こないだの発表会の様子からすると、オケに入った後のことをもう考えても良いと思うんだけど
――千鶴さんには、基礎のことはある程度教えたつもりです。私としては星の宮ユースに入ったあとも、千鶴さんに求められたら何か教えてあげたいとは思っていますけれど
――なるほど。私としては、オーディションより最初のオケの練習で今後教え方を決めたいかなって思ってる。とりあえず、今は江崎さんをしっかり見てあげてね。私もああいう子がコンバスに来るのは楽しみだからさ。それじゃ、またね!
――はい。また宜しくお願いします
いつもの快活な話し声が聞こえてきそうな本条とのメッセージのやり取りを終えると、凛々子は緩くウェーブの掛かった長い黒髪をかき上げてから、ケースを開けてヴァイオリンを構える。
ふと、凛々子は思い立ってすっかり暗譜してしまっているとある曲をヴァイオリンで弾き始めた。力強い弓さばきから、ニ長調の力強い主題が放たれていく。
(……ブラームスの協奏曲、千鶴さんのコントラバスが伴奏に入ってたらって思うと上手くいくのはどうしてかしら、ね)
誰もいない空き教室で、凛々子はしばらくの間、発表会で弾いたブラームスのヴァイオリン協奏曲の終楽章を、発表会の本番よりやや愉快な気分で弾き続けた。
音楽室で、高森と織田はそれぞれの自分の楽器の準備をする手を止めて、顔を見合わせた。
二人の前で、未乃梨がどこか恥ずかしそうに、途切れがちに言葉を繋げる。
「……その、わがままかもしれないですけど、だめ、でしょうか?」
織田はギターを抱えたまま、「うーん」とつぶやきながら黒い表紙の分厚い曲集のページをめくる。
「これかあ。有名な曲だし、確かにとっつきやすくはあるんだけど」
「まあ、良い曲だしアレンジの時間が取れるんならやるのも悪くないかな」
高森は自分のアルトサックスのリガチュアを締め直すと、織田が開いた曲集のページを吹き始めた。間髪を入れず、織田のギターもあとに続く。
未乃梨が昼休みにスマホで聴いた三拍子の曲が、サックスとギターだけのシンプルな音の重なりで立ち上り始めた。
織田がギターを弾きながら、未乃梨を振り返る。その表情は、気持ちのいい笑顔に変わっていた。
「未乃梨ちゃん、何してんの。王子様と一緒にやりたいんでしょ?」
「あ、はい!」
未乃梨は慌ててフルートを準備すると、高森と織田が即席で演奏を始めた「サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム」に加わっていった。
(続く)




