♯339
朝の音楽室で更に上達した千鶴のコントラバスを聴いて、その影にいる凛々子の存在を感じてしまい気持ちが沈んでしまう未乃梨。
未乃梨は昼休みに誰とも顔を合わせたくなくて……?
音楽室での朝練が終わってから、未乃梨はやっと再び千鶴に顔を見せる。
「千鶴、行こ」
未乃梨はそう言って、コントラバスを倉庫に仕舞い終えた千鶴の手を引いて歩き始めた。
教室に向かう途中も、席に着いてからも、未乃梨のどこか落ち着かないような、戸惑った様子は変わらなかった。
授業中もどこか上の空で、教師から指されて慌てて英文テキストを読んだり、数式の解で見当違いの答えを出しそうになったりして、千鶴はやや心配になる。
昼休みに、未乃梨は千鶴には何も告げずに教室を出て行った。
「あれ? 未乃梨は?」
席にいない未乃梨に、千鶴は首を傾げる。
志之が、ポニーテールの髪を揺らして意外そうに千鶴の顔を見た。
「みのりんならお弁当持ってどっかに出てっちゃったけど? 千鶴っち、聞いてないの?」
「ううん、何も聞いてないけど……どこか行くとか言ってた?」
「さあ? 誰かと話す様子もなかったし? それより千鶴っち、今日の放課後だけど」
千鶴は、忘れかけていた少しばかり厄介そうな用事を思い出して、苦い顔をしかけた。
「……ああ、女バレの衣装合わせね」
「先輩たち、吹部の一年生の江崎さんは逃がすな、って息巻いててさ。……悪いけど、衣装合わせはあたしも一緒に行くよ」
「やれやれ、だね」
千鶴と志之は席に着いて一緒に弁当を広げた。母が弁当に入れてくれた、冷めても美味しいはずの青椒肉絲が妙に味気ない。
「放課後、気が重いなあ。……はあ」
「なるようになるでしょ。ほら、元気出しなよ?」
ため息が漏れる千鶴の弁当から、志之が勝手に炒めた細切りのピーマンや豚肉を取り出して自分の弁当から手羽先揚げを差し出す。
「ありがと。……あ、美味しい」
弁当のおかず用に味付けをした手羽先揚げの、やや強めに利いた胡椒の味が千鶴の舌をひりひりと刺した。
行くあてもなく教室からふらふらと出た未乃梨は、音楽室に足を向けていた。
中に誰もいないのが、未乃梨には好都合だった。午前中はあまりに授業に身が入らず、その原因は未乃梨自身にも分かっている。
(私、千鶴の弦バスがどんどん上達していくの、もしかしてショックなのかな)
ぼんやりと口に運ぶ弁当の中身は、未乃梨にはほとんど味が分からなくなっている。あまり好きではない茹でたブロッコリーですら、未乃梨はなんとなく飲み下してしまっていた。
(千鶴が上達してる理由って、やっぱり凛々子さんに教わってるからだし、それは嬉しいけど……それで千鶴が凛々子さんと近付いちゃうの、やっぱり嫌)
弁当を早々に食べ終えるというよりは無理やりに胃に収めると、未乃梨は音楽室の机に突っ伏して、スマホで以前に織田からメッセージで送られてきた動画のアドレスを開く。
誰もいない音楽室ではあっても、未乃梨はやや遠慮してスマホのスピーカーの音量を絞ってからその動画を流した。
(サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム……私はお姫様なんかじゃないし、女の子の千鶴が王子様なわけない……けど)
音量を絞ったスマホから流れる、ミュートの入ったトランペットと、その向こう側から微かに聞こえるベースのリズムが、未乃梨の揺らいだ気持ちを少しずつ鎮めてくれるような気がする。
(……もうこうなったら、高森先輩とか瑠衣さんにお願いして、この曲を千鶴と演奏したいって言っちゃう? もしそれでOKが先輩たちから出たら)
未乃梨は机に突っ伏したまま、いつの間にかスマホから流れるトランペットやサックスに合わせて、唇がフルートを吹く時の形にして息を微かに吹いていた。
(この曲、なんか吹けそうかも……吹いてみたい)
未乃梨は、ゆっくりと音楽室の机から身を起こした。音楽室の壁の時計を見ると、午後からの授業が始まる時間がそろそろ近い。
(……凛々子さんがあんなに千鶴と一緒にいるんだもの、私だって)
未乃梨は、スマホの再生を止めてから、ゆっくりと音楽室の机を離れていった。
放課後になって、未乃梨から不安や落ち着きのなさは消えていた。
鞄やフルートのケースを準備すると、未乃梨は教室を出ようとする千鶴と志之を呼び止める。
「千鶴、ちょっといい?」
「どうしたの?」
声に生気が戻っている未乃梨に、千鶴はやや驚いた。
「今日、女バレの衣装合わせでしょ? 良かったら、これ試してみて。明日返してくれればいいから」
未乃梨が千鶴に手渡したのは、小さなポーチだった。
「ええっと、これって?」
「髪留めとかリボンとか、メンズコーデに合いそうなやつを色々準備してみたの。気に入ったのがあったら使ってみて。私、今日は吹部に顔を出す用事ができちゃったから」
「そうなの? 昨日は衣装合わせに付き合うって言ってたのに?」
「私は私でやることがあるから、さ。志之、千鶴をお願いね?」
未乃梨は千鶴と志之にも片目をつむってみせると、急ぎ足で音楽室へと向かっていった。
(続く)




