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♯338

千鶴の男装喫茶の衣装合わせに、何故か前の晩から気合いを入れていた様子の未乃梨。

その未乃梨が、千鶴が朝練で弾いているコントラバスを聴いてからどうも様子が違うようで……?

 翌日、千鶴(ちづる)はいつもより二本早い電車に合わせて家を出た。

 電車を待つ駅のホームで、千鶴は一人で前の夜に未乃梨(みのり)とやり取りしたメッセージの内容を思い出して、小さくため息をつく。


 ――未乃梨、明日の朝だけど、放課後は男装喫茶の衣装合わせだし、やりたい練習もあるから、いつもより朝早く学校に行くね

 ――じゃあ、私も早めに出ようかなあ。駅で待ち合わせる?

 ――んー、二本早い電車で出るつもりだから、六時半過ぎとかになっちゃうけど……未乃梨が無理だったら、ゆっくり来ても大丈夫だからね?

 ――そんなに早く出るの? じゃ、遅れそうならメッセ送るね


 そんなやり取りのあった今朝、流石にいつもより三十分以上早い出発時間に未乃梨は間に合わなかったらしく、駅に向かう千鶴のスマホにはこんなメッセージが届いた。


 ――千鶴、ごめん! ゆうべ色々用意してたら寝坊しちゃった! いつもの時間には音楽室に行くから!


(ま、今朝は私が放課後にできない分の練習を埋め合わせたいだけだし、未乃梨に無理に付き合わせる訳にもいかないよね。……にしても、色々用意してたって、何のことだろう)

 スマホを制服のスカートのポケットに仕舞いながら、千鶴はすっかり涼しくなった朝の風を引き連れてホームに滑り込んできた電車に乗り込む。

 平日のこの時間には、やはり車内に人の姿はまばらで、そこに未乃梨を連れずに乗っているのは千鶴には新鮮に感じる。

(まずはオーディションの練習、頑張んなきゃ。……このことも、いつかちゃんと未乃梨に話さないと、ね)

 青白い朝の晴れた空を窓から見上げながら、千鶴は頭の中で「マイスタージンガー」のフレーズをいくつか思い起こしていった。


 いつもより三十分以上早い朝の音楽室には、やはり誰もいなかった。千鶴は倉庫からコントラバスと譜面台を運び出すと、弓を張ってコントラバスの調弦を済ませる。

 千鶴は音楽室の机に腰掛けてコントラバスを構えると、過去に凛々子(りりこ)から出された音階課題をひと通り弾いてみた。少なくとも、「あさがお園」での本番の頃よりは、弦を押さえる左手も弓を動かす右手も、もたつく感じがなくなっている気がする。

 次に、千鶴はハ長調の音階を弾ける限り速いテンポで弾いてみた。誰もいない音楽室を、千鶴の弓を持った右手が生み出す夏休みの前より整った響きがよどみなく低い音の連なりを描いていく。

(この感じなら、昨日より上手く弾けるかも)

 音階を弾き終えてから、千鶴は「マイスタージンガー」のパート譜を開いた。昨日の放課後に凛々子のヴァイオリンと合わせた、「主人公のテーマ」の部分を、千鶴は弾き始めた。

 机に腰掛けて構えているせいか、千鶴の弾くコントラバスは今まで以上に力強く音を響かせていく。音楽室の床や窓ガラスが振動しているのではないかと千鶴が錯覚しそうなほど、コントラバスはしっかりと鳴った。

(やっぱり、立って弾くより座って弾いた方がいいのかな? 楽器を左手で支えなくていいし、右手とか上半身も自由だし)

 力強い、それでいて怒鳴り声のような荒さを出さずに済んでいる自分の音に、千鶴はどこか甘い優しさを含んだ高い音域の弦楽器のフレーズが重なってくるのを想像しながら、「マイスタージンガー」を弾き進めていく。

(一学期は「あさがお園」で、この前は発表会の合奏で。その次は……)

 千鶴は、自分の向こう側に、指揮者の側で大勢のヴァイオリンパートを後ろの席に従えて演奏する凛々子の姿が見えた気がした。

 音楽室のドアがそっと音を殺して開かれていることに、千鶴は気付かずに「マイスタージンガー」を弾いていた。

 厄介に見えた十六分音符が連続する細かな音が連なったフレーズを、凛々子や吉浦(よしうら)に教わったことを応用してクリアしていく千鶴に、聴き覚えのあるソプラノの声が掛けられる。

「千鶴、おはよう。……ねえ、何の曲を弾いてるの?」

「あ、未乃梨。おはよう」

 コントラバスの弓を止めた千鶴が音楽室の戸口を振り向くと、そこにいつものようにスクールバッグとフルートのケース肩から提げた未乃梨が立ち尽くしていた。

「これ? ……その、ちょっと練習で、ね」

 そう言って、千鶴は少し後悔した。ただ練習、というだけではあまりに答えとしてはあやふやに過ぎた。

「練習って、何? エチュードとか?」

「うん。凛々子さんに、課題でもらったやつ」

「そうなんだ? 私、びっくりしちゃった。弦バスをそんな風にバスクラとかバリトンサックスみたいに速いテンポで弾いてるの、あんまり見ないから」

 未乃梨の表情は、いつもの可愛らしい笑顔ではあった。ただ、その瞳は、明らかに驚きと戸惑いで揺らいで、千鶴ではなく窓の外や足元の床といったあらぬ方向に落ち着きをなくしたように視線を泳がせてしまっている。

「あ、ごめん。……未乃梨も、練習したいこと、あるよね? でっかい音で弾いちゃっててさ」

「……そうだね。弦バスって、千鶴が弾いたらトロンボーンとかテューバみたいにおっきな音が出るんだね? 音楽室の外のずっと遠くまで聴こえてたよ?」

 未乃梨は、千鶴に背を向けてフルートの準備を始める。

 この日の朝、未乃梨は教室に戻るまで、千鶴に顔を見せることをしないまま、フルートの個人練習を続けた。


(続く)

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