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337/363

♯337

星の宮ユースオーケストラのオーディションを前に、自分の進歩を実感する千鶴。

一方で、千鶴はその前に文化祭というイベントも控えていて……?

 その日の千鶴(ちづる)の練習は、「マイスタージンガー」の前奏曲の目立った箇所を一通り弾いてみる形で終わった。

 練習の出来栄えに、千鶴自身が驚いていた。

「意外と、私でもなんとか弾けちゃうものなんですね。もっと苦労するかと思ってました」

 パート譜に書かれた、十六分音符を含む細かい音のフレーズを改めて見直す千鶴に、凛々子(りりこ)はまるで当たり前のことのように首肯する。

「今まで千鶴さんに音階の課題をいくつか弾かせてきっと思うけれど、そういう練習の積み重ねで弾けるようになってしまう曲は結構多いの。それが身に付いてきたってことね」

 凛々子がヴァイオリンをワインレッドのケースに仕舞うのを見て、千鶴は空き教室の時計を見上げる。

「オーディション、私、受かるかなあ」

 コントラバスをケースに仕舞いながらこぼす千鶴に、凛々子はあくまで穏やかに応える。

「心配しなくていいわよ。千鶴さんが最高の演奏をしている自分をイメージできたら、きっと通るわ」

「最高の演奏、ですか?」

「そう。例えばだけど、あなたがステージの上でコントラバスを弾き終わった時に最高に幸せな気持ちになれる演奏を目指してみる、とかかしらね」

「最高に幸せな気持ちになれる演奏、ですか」

 ケースに仕舞い終えた楽器を抱え上げながら、千鶴は考えを巡らせる。今までに千鶴が経験した三回の演奏は、それぞれに弾き終えた後の感想が違うように思えるのだった。

(「あさがお園」で凛々子さんとか未乃梨(みのり)とかと演奏した時とか、部活の五月の連合演奏会とか、この前の初めてソロと弦楽器だけの合奏をやった発表会とか……)

 千鶴には、終わってみればそれぞれが楽しくて充実した経験だったと間違いなく言えそうだ。

「何だかんだで、今まで色んなところで弾いてるなあ」

 大きな楽器を抱えて、千鶴は凛々子と空き教室を出て音楽室へと向かう。その方向からは、コンクールの練習をしていた夏休みの頃とは一味違う、何やら楽しげな響きが聴こえてきている。

「それに、これから文化祭があって、その次は、ね?」

 廊下で隣に付いて歩く凛々子が、ふわりと笑みを見せる。その柔らかな表情に、千鶴は確かに惹かれていた。

「まずはオーディションに通らなきゃ、ですね」

「九月最後の週だから、もう来週ね。千鶴さんが星の宮ユースに来てくれるの、楽しみにしてるわよ」

「……頑張ります」

 凛々子にそう微笑まれて、千鶴はやや頬を染めながら、ただそう短く応えた。


 音楽室の倉庫にコントラバスを戻し終えた千鶴を、高森(たかもり)が呼び止めた。

江崎(えざき)さん、ちょっといいかな。明日の放課後なんだけど」

「はい?」

 高森が差し出したスマホには、何やらメンズの黒いベストやジャケットの画像と、誰かからのメッセージが表示されている。

「明日、男装喫茶のキャストの衣装合わせをやるから、二年五組の教室に来てほしいんだって。この画像は今年の衣装だってさ」

「……こういう衣装、どこで仕入れて来るんですかね」

 千鶴は、高森のスマホを見て後ずさりしかけた。皺ひとつないトルソーに着せられたベストやジャケットは、どう見ても適当に買い求めた安物ではなさそうだ。

 その、後ずさりしようとした千鶴の右腕にすがりつく感触がして、聴き覚えのあるソプラノの声がする。

「私、千鶴が着るならベストがいいな。メンズコーデだけど可愛い感じにも仕上がるし」

 千鶴の左後ろからは、うっすら匂う甘い髪の香りと、先ほどまで話していたアルトの声が聞こえてくる。

「私はかっちりジャケットを着てほしいわね。執事さんみたいな千鶴さん、見てみたいもの」

「あ、あの? 未乃梨と凛々子さん、いつの間に!?」

 知らないうちに左右から挟まれていたことに気付いて、千鶴は声を上擦らせた。

「千鶴、男装喫茶で接客の他に演奏もするんでしょ? じゃあベストの方が弦バス弾きやすいんじゃないの?」

「あら、オーケストラだとジャケットとか燕尾服ってこともあるのよ。そういう千鶴さんも、素敵ではなくて?」

「凛々子さん、部外者なんですから文化祭のことに首を突っ込まないでくれます?」

「私は率直に演奏中の服装に付いて言っただけよ。いけないかしら?」

 眉尻を吊り上げつつある未乃梨と、どこ吹く風の凛々子に千鶴は「まあ、その」と恐る恐る割って入る。

「とりあえず、さ。明日になるまで当日の衣装ってどうなるかわかんないんだし、ね?」

 凛々子に突っかかる未乃梨をなだめようとする千鶴に、高森がやれやれと欠伸をした。

「そんなに気になるんなら、明日の衣装合わせ、江崎さんの付き添いで行ってきたら?」

「え!? 高森先輩、良いんですか?」

「私は遠慮しておくわ。当日の楽しみにしておくのも面白そうだし」

 未乃梨が目を丸くして輝かせて、凛々子が口角を上品に上げる。

 未乃梨は、鼻息を荒くした。

「千鶴、明日の衣装合わせは気合い入れるわよ! 髪型とかメイクとか、色々考えなきゃ!」

「あ、あのちょっと未乃梨!?」

 千鶴は未乃梨に迫られて、ただただ困惑するのだった。


(続く)

次回338話は2/24に更新予定です。お楽しみに!

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