♯335
「マイスタージンガー」を何とか弾きこなす千鶴に、続いて別のことを課す凛々子。
それは、千鶴がどこかで経験した音楽と何か似ているようで……?
空き教室を満たした千鶴のコントラバスの残響が消えてから、聴いていた凛々子はひとまず納得できたように頷いた。
「流石に、ある程度低いポジションだけで弾くフレーズはもう問題ないようね。今のフレーズ、この『マイスタージンガー』っていう曲の中で一番大事なテーマのひとつだから、覚えておいてね」
「大事なテーマ……そういえば」
千鶴は、夏休みに凛々子と買い物に行った時に寄ったカフェで、スマホで聴かせてもらった時のことを思い出した。
「確か、途中で一番低い音の楽器が演奏してたメロディって」
「そう。この曲は元はオペラっていうか、そこから発展した楽劇っていう舞台作品なんだけど、千鶴さんが今弾いたのは、その主人公のテーマなの。そこに、色々重なって音楽が進むわけだけど」
凛々子はそこまで話すと、空き教室の机に置いた自分のワインレッドのケースを開ける。そのままヴァイオリンと弓を取り出しすと、凛々子は千鶴の方を向いてヴァイオリンを構えた。
「千鶴さん、調弦をしたいからAを弾いてちょうだい」
返事をする前に、千鶴は身体が動いた。
左手で軽く触れて速いスピードの弓で擦って弾いたコントラバスのAの開放弦から、ヴァイオリンの音域に届く高いAの倍音が生まれて、凛々子の調弦を助ける。
調弦を手早く済ますと、凛々子はコントラバスのパート譜の、先程千鶴が弾いた箇所を指差した。
「さっきのテーマ、もう一度弾いてみてちょうだい。私も、ヴァイオリンで合わせるから」
「わかりました。テンポはさっきの感じで」
千鶴はコントラバスを構え直すと、凛々子の目を見た。凛々子も千鶴の目を見上げるように見て、二人はどちらともなくほぼ同時に短く息を吸った。
千鶴が先程と同じ「マイスタージンガー」の主人公のものだというテーマを、今度はやや音量を大きめに、落ち着きを持って弾き始める。その千鶴のフレーズの上に、凛々子のヴァイオリンが被さってきた。
凛々子のヴァイオリンは、千鶴がコントラバスで弾いている重々しさを含んだテーマとは趣の違う旋律を弾いている。それは、どこか夢見がちなようにすら思える、優しい甘さを持っていた。
(あれ? 私と凛々子さん、どっちかが主役でどっちかが脇役って感じじゃないの?)
千鶴は、弾きながら小さな当惑を感じていた。
千鶴のコントラバスも、凛々子のヴァイオリンも、どちらかが主でどちらかが従と決まっているのではなさそうだった。
千鶴の弾いているテーマが主人公のものであるとしても、今弾いている楽譜の場所では、主人公のテーマにスポットが当たっているような表現ではなさそうだ。
(……あれ? でも、こういう主役のパートがひとつに決まってない音楽って、どっかで聴いたような……?)
千鶴の中に生まれたその疑問は、その「マイスタージンガー」の主人公のテーマを
弾きながら大きくなっていく。それでも、千鶴はその疑問や思考に、演奏を妨げられることはなかった。
音楽室では、未乃梨が慣れない動きの三拍子に苦戦しているところだった。
織田はギターを構え直すと、フルートを手にした疲労がやや表情に滲みだした未乃梨と、涼しい顔でアルトサックスをてにしている高森を見回す。
「んじゃ、もう一回やってみようか。未乃梨ちゃん、乗り方は良くなってきたからその調子で」
「あ、はい」
未乃梨は、目の前の「マイ・フェイヴァリット・シングス」の楽譜を見直す。音符だけを見れば単純な三拍子のはずが、織田のギターが入った途端に可愛らしい旋律が足元をすくわれたように転びそうになる。
(あれ? 普通にいちにいさん、の三拍子で取っちゃだめなの?)
未乃梨の戸惑いをよそに、高森が「ワン、ツー、ワン、ツー」とカウントして、もう一度「マイ・フェイヴァリット・シングス」の演奏が始まった。
高森のカウントに、未乃梨は妙なことに気付いて出遅れそうになる。
(高森先輩、小節の頭だけに「ワン」とか「ツー」って言ってた? どういうことなの?)
未乃梨は一見妙なカウントを取った高森と、三拍子にしてはどこかアクセントのかかるべき拍がずれているのに自分のフルートには全く迷わずにギターで伴奏を着けてくる織田に、ますます混乱しそうになりながら演奏についていった。
未乃梨が「マイ・フェイヴァリット・シングス」の楽譜に書かれた旋律を吹き終えても、織田のギターのコードワークは続く。
「ここからアドリブ。合図したらテーマに戻って」
高森が一瞬サックスのマウスピースから口を離して未乃梨に指示を出すと、すぐに演奏に戻って楽譜とはまるで違うフレーズを吹き始める。
(え? 高森先輩、その場でフレーズを作って吹いてるの!?)
未乃梨はフルートを手にしたまま、絶句してアドリブを吹く高森を見た。高森は、当たり前のことをしているような、何かスイッチが入っているわけでもない様子でフレーズを紡いでいく。
(……高森先輩と瑠衣さん、なんでこんなことができるの……!?)
目の前で二人が繰り広げていることが飲み込めず、未乃梨はフルートを持ったまま高森と織田の演奏を聴くしかできなかった。
(続く)




