♯334
未乃梨が文化祭で千鶴と演奏できることに胸を躍らせる一方で、千鶴は星の宮ユースオーケストラのオーディションも準備し始めていた。
凛々子が示した、そのオーディションの課題は……。
次の日、未乃梨は軽やかに弾んだ気持ちで、千鶴と一緒に朝の音楽室に現れた。
千鶴はコントラバスをケースから出して調弦をしながら、笑顔混じりの未乃梨を見た。
「未乃梨、ご機嫌だね?」
「文化祭、ちょっと楽しみになってきちゃってさ。瑠衣さんも今日来てくれるみたいだし、高森先輩も、千鶴の弦バスを入れるアレンジを作ってくれるんだって」
「ジャズかぁ。難しそうだなあ」
千鶴は苦笑しつつ、凛々子から出されていた音階の課題をさらい始める。朝の練習ということもあって、千鶴はその音階の課題を何往復かするだけに留めるつもりだった。
千鶴のコントラバスの弓が、まずは遅いテンポでしっかりとニ長調の音階を鳴らす。それから、テンポを上げて軽快に同じ調の音階を駆け巡っていく。
凛々子に今まで教わったことや、発表会の練習で吉浦から受けた指導を思い出して何度か試すうちに、千鶴のコントラバスの音は少しずつ変わっていた。
未乃梨は自分のフルートを準備しながら、音階練習を始めた千鶴のコントラバスの音に耳をそばだてた。吹部に入った当時に比べれば、千鶴は明らかに整った音で、未乃梨が知っているよりずっと速く音階を上がったり降りたりしている。
(あれ? 千鶴って、こんな速いテンポで弾けたの? 何だか、凛々子さんのオーケストラの弦バスの人たちみたい?)
未乃梨は、千鶴の右手を見た。成人の男性とほとんど変わらない、それでいて指がすらりと長くて男性とは見間違えようがない千鶴の大きな手が持つコントラバスの弓が、動きを乱さずに太くて長い弦を鳴らす。
(千鶴、やっぱり入部した時より上手くなってる、よね。弦バスを始めてもう半年だもん)
未乃梨は、その日の朝は深く考えずに、自分のフルートの基礎練習を進めていった。
放課後に、千鶴と未乃梨は音楽室で高森から呼び止められた。
「ちょっと二人とも、いいかな」
高森は、メロディとコードネームだけが書かれた楽譜を、千鶴と未乃梨に渡す。
「文化祭で二人にやってもらう曲がこの二曲。メンバーは他に私のサックスに瑠衣のギターで。とりあえずは今日はアレンジがまだなんで、私と瑠衣と小阪さんだけで」
千鶴は、見慣れない書式の楽譜を珍しそうに見回した。普段見ることがないト音記号の五線譜に、アルファベットと数字を組み合わせた記号のようなものが振られているのが不思議に映る。
高森は千鶴に追加で説明を続ける。
「江崎さんは今渡したコードネームが書いてあるやつの他に、ベースパートを起こした楽譜を後日アレンジが完成した後で渡すから、そっちで練習しておいてね」
「わかりました。ジャズとか全然分からないんで、また色々教えて下さい」
千鶴は高森に軽く頭を下げてから、コントラバスを抱えていつもの空き教室へと足を向けた。
空き教室では、既に凛々子が机にヴァイオリンケースと鞄を置いて待っていた。
「千鶴さん、お疲れ様。オーディションのことだけど、おうちの方にはもうお話した?」
「母さんが、いい機会だから受けて来いって言ってました。父さんも了承してくれました」
明るい千鶴の返事に、凛々子も顔をほころばせる。
「ご両親が理解のある方で良かったわ。それで、オーディションなのだけれど」
凛々子は、机の上のヴァイオリンケースからパート譜を取り出した。
「オーディションの課題はソロの曲と、今度星の宮ユースの本番でやる曲のパート譜から当日指定します。ソロはこの前の発表会の『オンブラ・マイ・フ』でいきましょう」
「当日は、伴奏はどうするんですか? また、未乃梨に来てもらわなきゃいけないとか?」
「当日は伴奏なしで演奏してもらいます。失敗がもしあっても、最後まで堂々と弾ければ大丈夫よ」
凛々子はそこまで説明すると、先程ヴァイオリンケースから取り出したパート譜を開く。
「早速、弾いてみましょうか。まずはこの場所を、テンポはこんな感じ」
その、凛々子が歩くような速さの四拍子を振ってから開いたパート譜のページは、コントラバスの一番低い音域を存分に使ったフレーズだった。
千鶴が部活で弾いている楽器で出せる一番低いEの音まで出てくるそのフレーズは、伴奏や和音の支えというよりは、何かの旋律のように見える気がしなくもない。
千鶴は、その凛々子が示したフレーズを弾き始めた。それは、以前に千鶴が凛々子買い物に出かけた後で寄ったカフェで、スマホにイヤフォンを繋いで聴かせてもらった曲だった。
(これ、確かマイスタージンガー、って曲?)
千鶴が弾いているフレーズは、いくつもの尖塔をそなえた石造りの城のような、普段千鶴が感じたことのない巨大さを感じたその曲そのもので、凛々子に聴かせてもらった時に感じた、城に甲冑を着けた騎士が大勢集まっる中に現れた王のような威容を思い出すには十分だった。
千鶴は、その物々しさすら感じるそのフレーズを最後まで弾ききった。決して速いテンポではないとはいえ、初見のフレーズをほとんど間違えずに弾いた千鶴のコントラバスの余韻は、空き教室の中で随分と長く残った。
(続く)




