♯326
「調和の霊感」で千鶴の演奏が良い仕上がりだったことに満足な波多野。そして、次のチャイコフスキーの「ワルツ」で千鶴に期待を寄せる凛々子は……?
ヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番が終止符を迎えて、客席から湧き上がる拍手を波多野はコントラバスを支えながら舞台の上で聴いていた。
(練習の時もだけど、江崎さんと一緒だと気持ちよく弾けたなあ。流石の高身長女子、ってとこかな)
自分とは違って巨大な弦楽器を支えるのにまるで苦労する様子がない隣の千鶴に、波多野は拍手に紛れてこっそりと話しかけた。
「……良かったよ。このあとのチャイコフスキー、楽しもうね」
「……あ、はい」
波多野がコントラバスに隠すように右手の親指を立てると、千鶴は恐縮してはにかんだ。
舞台の最前で拍手を受ける、「調和の霊感」でソロを担当した樋口と内村が舞台下手の袖へと退出すると、ヴァイオリンの最前に座る凛々子が改めて合奏全体を見回して、ヴァイオリンでAの音を弾いた。
「さて、最後の曲だね」
波多野は凛々子の方に向き直るってコントラバスを構えるとAの音に合わせて手早く調弦を始めた。千鶴もすぐに波多野に続く。
(……ちょっと高くなってる。やっぱり、舞台の上だと照明の熱さで結構変わるのかな)
千鶴は調弦を済ませると、表情に余裕すら感じる波多野の隣で、コントラバスから遠いヴァイオリンの席の先頭に座る凛々子を見た。
(ヴィヴァルディ、思った以上の出来だったわね。……さて、最後の曲を始めましょうか)
凛々子は全てのパートが調弦を終えたのを見届けると、ヴァイオリンを構え直す。
(……今日の弦楽合奏、ヴァイオリンは特に大勢で弾くのに慣れてない子も多いからなかなか大変だったけど、私は弾いていて楽しかったわ)
ふと、凛々子の視界の端に舞台上手側に陣取っている低音の弦楽器のパートが映り込む。そのうちの一人、コントラバスで初めて弦楽合奏に参加する長身の少女が、その楽しさの一端を担っていることは、凛々子にとっては愉快ですらあった。
(じゃ、始めましょうか。千鶴さん、波多野さんと一緒にリードをお願いね)
凛々子は、想像の中だけで黒いワンピースの裾を摘まんでお辞儀を千鶴にすると、弓をヴァイオリンの上に掲げた。
チャイコフスキーの「セレナード」の「ワルツ」がゆったりと流れ出して、セシリアホールの中を優雅な空気で満たす。上品な香水の匂いが微かに香るような音楽の流れの中で、千鶴はひたすら三拍子の歩みを進めた。
(……主旋律を弾いてる音、凛々子さんのヴァイオリンが中心になってる。……もっと、一緒に弾いていたいな)
ほんの僅かだけ、千鶴の感じるテンポが遅い方に移った。その僅かな揺らぎが、すぐ隣の波多野やチェロの智花と吉浦に、そして合奏全体に伝わっていく。
波多野と智花は、千鶴が選んだテンポに微かに口角を上げた。吉浦ですらも、微かに遅くなった「ワルツ」の運びに納得したように小さく頷く。
凛々子も、千鶴から始まったテンポの小さな変化を快く受け止めた。
(まあ。「ワルツ」の旋律を弾くには気持ちいい緩やかな流れ……そういうリードのしかた、大好きよ)
以前、音楽室から聴こえてくる演奏に合わせて学校の空き教室で踊ったことを、凛々子は弾きながら頭の片隅に思い出した。
その時に自分の腕に回った千鶴の大きな手や長い指の感触が、優雅に淀みなく流れる「ワルツ」の流れに合わせて思い出されて、凛々子はヴァイオリンを弾きながら笑みをこぼす。
(ダンスの音楽ですもの、踊っているところを思い出しながら弾いたっていいわよね)
チャイコフスキーの「ワルツ」の主役が第二ヴァイオリンとチェロに移って、旋律が豊かで伸びやかな色合いに変わる。凛々子が弾く第一ヴァイオリンはその上の音域で、主旋律にリボンやレースを縫い付ける刺繍のような対旋律に回っていく。
未乃梨は、ヴィヴァルディの後に始まった三拍子の優雅な旋律にいつしか身体を小さく揺らしながら聴いていた。
(これ、コンクールでやった「キティ・ワルツ」と同じダンスの曲だっけ。……千鶴、やっぱり誰かと踊ってる感じで弾いてるのかな)
思わせぶりに揺らぐ三拍子を生むコントラバスの弓遣いに、未乃梨はじっと目を注いだ。未乃梨の中で、ある想像がふと浮かんでいく。
(この曲、千鶴が私と踊ってくれたら……? 千鶴がタキシードで、私がドレス? それとも、女の子同士なら、千鶴もドレスなのかな)
今日の千鶴の衣装が、フレンチスリーブのブラウスとマキシ丈のフレアスカートなことが、未乃梨の想像をかえって膨らませていく。男装の千鶴も、ドレスの千鶴も、未乃梨にとっては間近で見てみたい姿に間違いない。
(……今は凛々子さんと一緒に演奏してるけど、次はきっと、私の番なんだから。私だって、千鶴が一番格好良くて一番綺麗なところ、もっと間近で見たいもん)
最近、髪も伸びてきて女の子らしいというか大人の女性にやや近づいて、中学生の頃の男の子っぽさが薄らいでいる千鶴が自分の側にいる様子を、未乃梨は胸の奥に描かずにはいられない。
(お母さんは千鶴のこと、男の子だったらお婿さんに来てほしいって言ってたけど……私は、女の子の千鶴が好き)
「ワルツ」の音楽の高まりに合わせるように、未乃梨の鼓動も少しだけ速まっていた。
(続く)




