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♯324

ついに始まったヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番の本番。

未熟なりに学んだことを演奏に生かす千鶴と、そこに凛々子から受けた影響をみて悩む未乃梨と……。

 ヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番の第一楽章が、きりりと引き締まった和音の響きを伴って始まった。

 チェロとコントラバスの跳ね回るようなリズムで短調の音階を降りていく動きの上を、凛々子(りりこ)に牽引された十人ほどのヴァイオリンが以前の合奏練習よりは小気味よく旋律を紡ぐ。

 千鶴(ちづる)は、自分の隣に立っている波多野(はたの)の音を気にしながら、指導者の吉浦(よしうら)に教わったことを極力守ってコントラバスを弾いた。

(音量を出し過ぎず、弓幅をタイトに……なんだか、調子が練習の時より良いかも)

 千鶴の音は、隣で弾く波多野のコントラバスとも、前で弾いている智花(ともか)や吉浦のチェロとも上手く噛み合った。チェロとコントラバスのオクターブで重なった低音が、ヴァイオリンやヴィオラを圧迫しない音量で合奏の土台を作っていく。

 その合奏で示された、きびきびと心地良く動く主題のあとで、発表会のソロの部でバッハの無伴奏を弾いた樋口(ひぐち)という少女と、ベートーヴェンの「春」のソナタを弾いた内村(うちむら)という少年の二重に重なったヴァイオリンのソロが続く。

 全ての低音楽器が休符になる中で進み出る二人のソロを、千鶴は身動きをせずに聴いていた。

(樋口さんも、内村君も、練習の時よりずっと綺麗に決まった音で弾いてる……練習の時に、凛々子さんと比べるようなことを思っちゃったの、いけなかったな)

 そんな反省をしつつ、再び全合奏での主題が返ってきて、千鶴はその主題をコントラバスで支えた。

(私だって、凛々子さんのヴァイオリンみたいに演奏できるわけじゃない。でも、凛々子さんを見習ってみるべきところは、少しはあるはず)

 千鶴は、凛々子を視界の端にとらえたまま、コントラバスを弾き続ける。凛々子の演奏中の所作は、千鶴が今まで間近で見てきた洗練された動きだった。

(全体を支える時は過不足なく弾いて、ソロ二人が弾いてる時は静かに周りを聴いて……)

 そんなことを考えるまでもなく、千鶴のコントラバスを弾く動きから無駄なものが少しずつ取り除かれていく。全合奏の主題と、樋口と内村によるソロの二重奏の交代を、千鶴は過不足ない音で乗り切っていく。


 客席で、未乃梨(みのり)真琴(まこと)の隣でずっと舞台上手側に集まっている低音楽器のパートを見た。

 整ったチェロとコントラバスのオクターブで重なる低音が、ヴィヴァルディの音楽をしっかりと支えていく。その低音の中に確かに聴こえる千鶴の弾くコントラバスの音に、未乃梨は耳をそばだてた。

(部活で、発表会の練習で、ずっと聴いてきた千鶴の音だ……でも)

 未乃梨はそこで、はたと思考を別の方向へと巡らせた。

(……何か、違う。何が? 千鶴が今日弾いてる弦バスが、いつも部活で弾いてる楽器じゃないから? 弾いてる曲が、吹部じゃ絶対にできない、弦楽器だけでやる曲だから? ……待って、千鶴に一番身近な弦楽器をやってる人って)

 舞台の上でアンサンブルをまとめている、ヴァイオリンの先頭の席に座っている人物に目をやって、未乃梨は凍りついたように身体を強張らせた。その席に座る、緩くウェーブの掛かった長い黒髪の少女のヴァイオリンを演奏する姿に、未乃梨は打ちひしがれた気持ちを覚えそうになる。

(凛々子さんの演奏、やっぱり動きからして綺麗で。千鶴も、凛々子さんに教わってる分どこか似てきてる……?)

 未乃梨は、舞台の上で演奏しているヴィヴァルディの音楽が、耳に入らなくなりつつあった。低音の楽器が休止する二人のソロが活躍する部分ですら、合奏の流れを把握しようとヴァイオリンの方を向いている千鶴が、凛々子の演奏する姿を追っているのではないかと疑ってしまいそうになる。

(良かった、聴きに来てくれたお父さんたちと客席で合流しなくて。……私、きっとお父さんにもお母さんにも、見せられない顔してる)

 舞台では、ヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番の最初の楽章が終止符に向かいつつあった。それにすら未乃梨は気付けずに、音楽を受け止められない散らかった心理のまま、ただただ舞台の上を見つめ続けた。


 真琴は演奏中のヴィヴァルディに耳を傾けながら、隣に座っている未乃梨の様子に気付いた。

(……やっぱり、千鶴ちゃんの演奏が凛々子の影響を受けてるってこと、未乃梨ちゃんも気付いちゃってるよね)

 目の前で演奏しているヴィヴァルディは、真琴の耳からすると経験の差がある演奏者が混ざっているにしては悪いとはいえない。むしろ、ヴァイオリンやヴィオラに混ざっている経験の浅い小学生や中学生の演奏者を凛々子や智花がよく引っ張っていけていると行ってよかった。

(にしても。あの様子からして凛々子はこの寄せ集めの合奏、まとめるのにほとんど苦労してなさそうな……まあ、ヴィヴァルディみたいなバロックで、低音がこれだけしっかりしてれば、ね)

 真琴は、隣の席の未乃梨が気にかけている様子の舞台の上手側を見た。吉浦や智花の後ろで弾いているチェロの少年が縮こまり気味に弾いていることを除けば、低音楽器のパートは全体としてしっかりと安定している。

 その低音楽器のうちチェロの後ろで弾いているコントラバス二人の仕上がりが、真琴ですら目を見張らざるを得ない部分があった。

(千鶴ちゃんのコントラバス、波多野さんと比べればやっぱり未熟だ。でも)

 真琴は、隣で弾いている波多野より遥かに背の高い千鶴を改めて見た。

(いくら千鶴ちゃんが体格に恵まれてるとはいえ、あんな構えるのもひと苦労な大きな楽器をしっかり鳴らせて、不十分なところはあるにしろある程度のコントロールもできつつある……それが凛々子に教わってきた結果だとしたら。そして、その上達が凛々子にも少しは影響があったとしたら)

 隣の席の表情が沈んだ未乃梨を、真琴は横目で見た。

(私も未乃梨ちゃんの気持ち、分かるよ。……まさか、同じ先生にずっと教わってきた凛々子が、学校で見つけてきたコントラバスの子にここまで入れ込んでいるなんて、私も思わなかったもの)


(続く)

 

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