♯322
ブラームスの協奏曲が堂々と最後の和音の中で終止を迎えて、凛々子がフェルマータで長く延ばされたDを弾ききったヴァイオリンの弓を弦から離して勢いのままに宙に掲げた。
凛々子のヴァイオリンの余韻が消えるかどうかの頃合いで、客席から大きな拍手が上がって、千鶴は思わず上手側の舞台袖から客席に目をやった。
(……凛々子さんのソロ、こんなにたくさんの人が聴いていたの!?)
客席は、人影がまばらだった千鶴のソロの時とは違って、七割ほどが埋まっている。
身内向けの発表会で凛々子の関係者も含まれていることは想像に難くないとはいえ、それでも凛々子の演奏を聴きに来た人で客席が半分以上埋まっていることは、千鶴には驚きだった。
凛々子が顎に挟んでいたヴァイオリンを下ろして、客席に一礼すると、伴奏者は舞台下手へ退出して、凛々子はヴァイオリンと弓を手にしたまま上手の舞台袖へと足を進めてくる。千鶴は、自分の腕に手を添えている未乃梨に振り向いた。
「凛々子さん、迎えてあげようか」
「……うん」
未乃梨が小さく頷くと、千鶴は未乃梨の手を引いて上手の舞台袖の奥に下がる。舞台袖に入ってきた凛々子に、誰かが拍手をした。千鶴も、舞台袖で聴いていた真琴や波多野や智花も、少し遅れて未乃梨も、その拍手に続いた。
「皆さん、聴いて下さってありがとうございます。楽しんで頂けましたかしら」
ヴァイオリンを胸元に抱えた凛々子が拍手に応えて一礼すると、真っ先に真琴が賛辞を飛ばす。
「流石は星の宮のコンミスだね。凄かったよ」
「ありがとう。でも、真琴好みの演奏ではなかったのではなくて?」
「言ってくれるじゃない? 私には絶対にできないスタイルを見せつけておいて、さ」
いたずらっぽく微笑する凛々子にも、やや斜に構えて言い返す真琴にも、言葉に毒気は含まれてはいない。そんな二人のやりとりに、未乃梨は何も感じずにはいられなかった。
(凛々子さんを見る真琴さん、やっぱりそういう気持ちがあるんだ……千鶴のことを見る私みたいに)
その未乃梨の隣に立っている千鶴を、凛々子が見ている。千鶴も、明らかに凛々子を見ていた。
凛々子は軽口を交わした真琴の前を通り過ぎると、千鶴の前に進み出る。
「ブラームス、楽しんでくれたかしら?」
演奏を終えてやや上気した凛々子に見上げられた千鶴も、気圧されたように凛々子の顔を見た。
「その、……初めて聴いた曲でよく分からないところもありましたけど、凄かったです」
「ありがとう。この後の合奏も、宜しくね」
凛々子が柔らかく微笑むと、真琴が「やれやれ」と肩をすくめる。
「凛々子、私より千鶴ちゃんが随分お気に入りなんだね?」
「当然でしょう? 始めたばかりとはいっても、大事なコントラバス奏者よ。それにさっきの『オンブラ・マイ・フ』だって、未乃梨さんと一緒に素敵な演奏をしてくれたもの?」
凛々子は千鶴と未乃梨に当分にその柔らかな笑みを向けた。千鶴は微かに頬を染めて、未乃梨はむっとしかめかけていた顔が緩む。
千鶴は、凛々子に改めて小さく頭を下げた。
「学校で練習を見てくれて、そして発表会に誘ってくれて、ありがとうございました」
「あら、私に礼を言うのはまだ早いわよ? この後のヴィヴァルディとチャイコフスキー、それが終わってからね。それじゃ、この後で」
凛々子はそう言い残して居合わせた面々に再び一礼すると、舞台袖から去っていった。
未乃梨は、その凛々子のカチューシャもワンピースもストッキングや靴すらも真っ黒なもので固めた後ろ姿を見送りながら、もう一度千鶴の腕にすがりついた。
「千鶴、ほら、凛々子さんに見とれてないの。次の合奏の準備しなきゃでしょ?」
「あ、あの、そういう訳じゃ。確かに、凛々子さんの演奏、凄かったけど」
「それだけかしら? 凛々子さんに褒められてドキドキしてたの、分かってるんだからね」
「ちょっと未乃梨、しがみつかれたらコントラバスの準備できないじゃない」
未乃梨に取りつかれる千鶴に、波多野は「あーあ、もう」と呆れたように笑う。
「小阪さん、江崎さんが困ってるからそろそろ放してあげよっか?」
「……分かりました。千鶴、合奏中に凛々子さんばっかり見て弾かないでよね」
可愛らしくむくれる未乃梨に、智花も呆れざるを得なかった。
「もう。未乃梨ちゃん、合奏でコンサートミストレスを見ないで弾けだなんて無理だよ?」
「分かってます。でも、合奏の後で凛々子さんと二人っきりにならないでよね?」
「どうしてそういう話になるの。ほら、機嫌直してよ」
未乃梨をなんとかなだめようとする千鶴に、真琴が「まあまあ」と入ってきた。
「未乃梨ちゃん、客席に行こっか? 千鶴ちゃんが凛々子に夢中になってるかどうかは、客席で聴いてても分かるでしょ?」
真琴は未乃梨の肩に手を置くと、千鶴に「じゃ、頑張ってね」と告げてから未乃梨を連れて舞台袖から出て行った。
「……もう、未乃梨ったら」
千鶴は、各々の楽器の準備にかかっている波多野と智花にくすくすと微笑されながら、伸びかけのストレートの黒髪を掻き上げた。
(続く)




