♯320
智花に諭されて気を沈める未乃梨に、凛々子の演奏を一緒に舞台袖で聴こうと改めて誘う千鶴。
その凛々子の演奏は……?
手洗いから真琴と一緒に上手側の舞台袖に戻ってきた千鶴を、智花が手招きした。
「……千鶴ちゃん、ちょっと」
智花の真面目な表情に、千鶴は真琴と顔を見合わせる。
「何か、あったんでしょうか」
「みたいよ。ほら」
真琴が千鶴に、親指で何かあった様子の人物を指した。その先には、ピンクのブラウスに黒のレイヤードのロングスカートの少女が、明るさとはほど遠い表情立ち尽くしている。
千鶴は声を落として智花に尋ねた。
「……未乃梨、どうしちゃったんですか?」
「ちょっと、ね。千鶴ちゃん、凛々子ちゃんの出番の間、未乃梨ちゃんの側にいてあげて。どうも、不安定みたいだから」
真面目な表情を崩さない智花に、千鶴は小さく頭を下げた。
「……すみません。気にかけて下さって」
「千鶴ちゃん、行ってあげなよ。友達でしょ?」
真琴に促されて、千鶴は無伴奏のヴァイオリンの曲が流れる中を忍び足で未乃梨のもとへと歩み寄っていった。
下手側の舞台袖で、凛々子は自分の楽器を手にしたまま、舞台の上で演奏している無伴奏のヴァイオリン曲に耳を傾けていた。
無伴奏の曲を舞台で弾いているフリルの装飾が控えめに付いた黒いワンピースに身を包んだ少女は、二つに結んだ髪を揺らしながら一本のヴァイオリンから複数の旋律を引き出している。その演奏に苦心や試行錯誤のあとが見られて、凛々子は内心で小さく頷いた。
(今弾いてるの、このあとのヴィヴァルディでソロを担当する樋口さんよね。……バッハの無伴奏ソナタの三番のフーガだなんて、難題に取り組んでいたのね。私も、これは苦労したわ)
バッハの無伴奏のフーガは、ヴァイオリンの複数の弦を掻き鳴らして分散和音をいくつもくぐりながら、どこか固い表情ながら何かを祈り願うような終結へと向かっていく。
凛々子はそれを聴きながら、自分のソロのあとの合奏に備えて下手側の舞台袖にそろそろ集まってきた他の出演者を見回した。
(さて、思い出にふけるのはここまで。もうすぐ、私の出番。今から弾くのは、私自身の挑戦のため、そして何よりお客様に聴いて頂くため。……千鶴さんと未乃梨さんにも、今日の私の演奏、楽しんでもらえるかしら)
バッハの無伴奏のフーガが長調の明るく夢見るような響きの中で終止符を迎えて、演奏していた樋口という少女が客席からの大きな拍手に一礼してから上手側の舞台袖に去って行くのを見届けると、凛々子はいっとき目を閉じてゆっくりと呼吸を整えた。
(さあ、始めましょうか。発表会のソロの部の最後は、しっかり締めくくるわよ)
千鶴は、上手側の舞台袖で立ち尽くしている未乃梨にそっと近寄った。
「……ねえ、未乃梨。これから凛々子さんの出番だし、一緒に聴かない?」
「……いいの?」
未乃梨は少し驚いたように目を見開いた。千鶴に応える声は、少しだけ掠れている。
「……うん。せっかく凛々子さんの演奏を聴く機会だし、舞台袖で聴いちゃおうよ」
「……でも……」
未乃梨は、どこか二の足を踏んでいるようだった。千鶴は、未乃梨にできるだけ穏やかに話しかける。
「凛々子さんも今日のために沢山練習してきたと思うし、未乃梨にも聴いてほしいって思ってるんじゃないかな?」
「……それじゃ、千鶴と一緒に聴いてみようかな」
未乃梨は、そっと千鶴の腕を取った。先ほどのような、千鶴を誰かに取られまいと引っ張る力は、未乃梨の手から抜けていた。
舞台の上に、黒いシンプルなノースリーブのワンピースに身を包んでヴァイオリンを手にした凛々子が客席からの拍手を浴びながら現れた。一緒にステージに出た伴奏者は吉浦よりかはやや年下の中年の女性で、ピアノの前に座ると早速軽く和音を弾いて凛々子のヴァイオリンの調弦が終わるのを待った。
舞台に現れるところから、凛々子はどこまでも堂々と振る舞っている。まるで装飾のない、華やかさとは真逆の黒いノースリーブのワンピースが、凛々子の緩くウェーブの掛かった長い黒髪と相まって、無彩色のはずのその装いを華やかに見せた。
未乃梨は、千鶴の腕に手を添えたまま、息を飲んだ。
(凛々子さん、衣装も髪も真っ黒なのに……どうしてあんなに舞台で映えるの?)
ヴァイオリンの調弦を手早く済ませると、凛々子は伴奏者と一瞬視線を合わせる。
そして、凛々子の演奏が始まった。
風に揺れて陽射しにきらめく湖面のように爽快なピアノの伴奏に乗って力強い弓さばきから放たれる決然とした主題から、凛々子の弾くソロは始まった。
(これ、ブラームスって人の作ったヴァイオリンとオーケストラのための曲だっけ。……凛々子さん、「あさがお園」の本番のときとも、オーケストラとかで大勢と一緒に弾いてるときとも全然違う音で弾いてる……!)
千鶴は、上手の舞台袖から凛々子の演奏を見て目と耳を釘付けにされた。弓を毛箱から先端までいっぱい使う強靭な音から、艶めくヴィブラートで飾られた消え入るような高い音まで、凛々子は千鶴が聴いたことのないフレーズを引き出していく。
(これが、凛々子さんの本気、なの……? 凄い……!)
千鶴は、プログラムに書かれた凛々子が弾いている曲の正式なタイトルを思い出して、ふととある想像に駆られた。
(確かブラームス作曲のヴァイオリン協奏曲、その最後の、第三楽章……この曲、私が凛々子さんの後ろで、オーケストラの中に交じって一緒に弾けたら……?)
(続く)




