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♯32

少しずつ知られていく、千鶴の存在。

そして一方、千鶴とのパッヘルベルの「カノン」の練習中に未乃梨はある思いに囚われて……。

「その、凛々子(りりこ)ちゃんが教えてるって子、近々どっかで本番とかあったりする?」

 本条(ほんじょう)は空になった紙コップを捨てると、凛々子に改めて問うた。

「今度、瑞香(みずか)さんや智花(ともか)さんと一緒に養護施設に弾きに行くんですけど、その子も一緒です。それが初舞台ですね」

「初めての本番が弦メインの小編成でお気楽なやつとは、中々理想的だねぇ。私もそういう仕事欲しいな」

 途端に羨ましそうな本条に、「まあ」と凛々子は微笑んだ。

「ご主人のピアノと一緒に訪問演奏とかどうですか? 舞衣子(まいこ)先生のソロ、素敵ですよ」

「うち、子供がまだ小さいから家を空けるのが難しいんだよねえ。学生の頃にそういう演奏の用事、もっと入れときゃ良かったよ」

 本条は「やれやれ」と思い出し笑いをしながら、スマホの画面を見た。そろそろ休憩時間も終わる頃だった。

「凛々子ちゃんが教えてる子、オーケストラに興味持ってくれるといいね?」

「ですね。今のところは好感触、かな」

「その子と、いつかどっかで会ってみたいね。さあて、後半の『グレート』、やりますか」

 長尺の曲の練習に、全く気負った様子もなく練習室に戻る本条の後ろを歩きながら、凛々子はぼんやりと考えていた。

(ここに、ディアナホールの練習に江崎(えざき)さんが来て、舞衣子先生と並んで弾くことがあったら……)

 その凛々子の空想は、さして難しくないように思われた。



 凛々子の星の宮ユースオーケストラの練習があったその次の月曜日、千鶴(ちづる)未乃梨(みのり)と一緒に朝の音楽室で凛々子に渡された楽譜を見直していた。

 千鶴は、以前に合わせた「主よ、人の望みの喜びよ」や「G線上のアリア」より、作曲者名が読めなかった、タイトルが「カノン」と読めそうな曲が気になっていた。

「未乃梨、これ、どういう曲なの?」

「ああ、パッヘルベルのカノンね」

「パッヘルベル?」

 千鶴は、「Pachelbel」という見慣れないアルファベットの綴りに改めて目を落とした。どこの国の人間とも想像がつかない人名にも首を傾げていたが、千鶴が更に奇妙に思ったのは全く同じパターンを延々と繰り返す自分のパートだった。

(デー)……(アー)……(ハー)……Fis(フィス)……(ゲー)……(デー)……(ゲー)……(アー)……何これ」

 覚えたてのドイツ語式の音名で楽譜を拾い読みしながら、千鶴は「カノン」の自分のパートをコントラバスで軽く鳴らしてみた。

 その、何かのメロディに聴こえなくもない、際限なく繰り返される二小節の音の連なりはどうにも奇妙だった。やっとコントラバスを構えることにだけは慣れてきた千鶴でも、初めて楽譜を見た時に指遣いが思い付くぐらい単純な動きで、一人で弾いている最中だとあくびが出そうに感じるほどだった。

「千鶴の低音に、私とか仙道(せんどう)先輩のパートがずれながら重なってく感じ。さっそく、二人で合わせてみようか?」

 未乃梨がフルートを構えて、弓を取り直した千鶴が小さく息を吸った。

 千鶴のコントラバスが、一見退屈な二小節のループを弾き始めた。それに遅れて、未乃梨のフルートがのびやか歌い出した。

 それは、明らかに千鶴にもどこかで聴いた覚えがある旋律だった。もはや完全に覚えてしまった、楽譜に書かれた二小節の繰り返しから目を話すと、千鶴はフルートを吹く未乃梨を注視した。

 未乃梨のフルートは少しずつ動きが細かくなって、いつもの真っ直ぐに澄んだ音が、陽射しを浴びて散らばる噴水の水飛沫のようにきらきらと舞い散っていく。未乃梨の吹くフレーズが姿を変えていく様を聴きながら、千鶴は弓を持つ右手から少しずつ力を抜いた。

(この曲も、未乃梨を邪魔しちゃいけない……なら)

 千鶴の弓が、その動きを変えた。

 四分音符が合計で八つ並ぶ二小節の繰り返しを、音を区切らずに小節を塗りつぶす弾き方から、音の弾き始めだけをやや目立たせて、あとは強調せずに次の音符まで音量を絞る弾き方に切り替わって、二小節のループの伴奏のリズムが浮き上がった。

 未乃梨はいつしか、千鶴のコントラバスの弓を見ながらフルートを吹いていた。

(四分音符が綺麗に聴こえる弾き方に変わってる……私のために弾き方を変えてくれたの……?)

 未乃梨は、自分のパートが更に細かい動きになる、三十二分音符で音階を転がっていく箇所に差し掛かった。それでも、一人で吹いている時とは演奏の快適さが段違いに良く感じられた。その未乃梨の思いに、薄い陰が差した。

(でも、この曲は、私一人が旋律を吹く曲じゃ、ない)

 千鶴のコントラバスは、少しずつ未乃梨を快適にエスコートする形に組み変わっていた。その一方で、未乃梨の胸の中に差した薄い陰は、少しずつ伸びていた。

(この曲は、パッヘルベルの「カノン」は、仙道先輩も一緒にヴァイオリンを弾くんだってこと)

 未乃梨は、今この場にいないはずの凛々子が、「カノン」の別のパートを弾いているような錯覚すら覚えていた。

(千鶴のコントラバス、仙道先輩に教わり始めてから、やっぱり凄く良くなってる……それは、誰のためなの? 私のためだって、思っていいの……?)

 迷路のように絡まる「カノン」の旋律の中で、未乃梨は物思いに囚われていた。


(続く)

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