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♯318

発表会で初めてのコントラバスのソロ演奏を終えた千鶴は、舞台袖に引っ込んでからの未乃梨の様子に戸惑ってしまう。

未乃梨は、何故か千鶴から離れたがらないようで……?

 上手の舞台袖にコントラバスを寝かせると、千鶴(ちづる)はやっと一息をついた。

「……千鶴、お疲れ様」

 自分をねぎらうよく知っているソプラノの声に、千鶴は振り返った。ピンクのブラウスに黒いレイヤードスカートの衣装に身を包んだ少女が、千鶴の顔を見上げてくる。

未乃梨(みのり)も、お疲れ様。ピアノ伴奏、ありがとうね」

「千鶴も。『オンブラ・マイ・フ』、素敵だったよ」

 未乃梨も、どこか顔を上気させていた。千鶴が弓を緩めると未乃梨はそっと千鶴に近寄っていく。

「ここ、コンクールの地区大会の会場だったのよね。……今度は、私が千鶴と一緒にコンクールに出たいな」

 未乃梨が、千鶴の手を取って、上気した顔を上げた。

「そうだね。来年の夏だから、まだ先だけど」

 その未乃梨の顔を、一目見てから、千鶴は面映ゆさのあまり視線を舞台の方に逸らした。そこでは、波多野(はたの)がコントラバスのソロで「シシリエンヌ」を弾いている。

 波多野の、楽器の胴体越しに指を届かせるほど高いポジションで弾く高い音や、緩やかにヴィブラートを掛けて歌いこむ巧みな弓の運びに、千鶴は聴き入りそうになる。

「……これ、フルートの曲なんだっけ」

「うん。レッスンで吹いたことあるし、フルートがある時なら、いつでも聴かせてあげるよ? ……物音とか立てちゃうかもだし、舞台から、離れよっか」

 未乃梨が、舞台から袖への出入り口とは反対の方向に千鶴の腕を引いた。未乃梨の表情は、どこか硬くなっていた。

 その力が妙に強く感じられて、千鶴は未乃梨をなだめようとした。

「あ、あの、未乃梨?」

「いいから、舞台から離れて。音なら離れてても聴こえるでしょ?」

「そうだけど……」

 千鶴は少し釈然としないまま、未乃梨に舞台袖の奥まで引っ張られていく。

 未乃梨は波多野の演奏が終わっても、千鶴の腕を離さなかった。

 智花(ともか)がチェロで弾くバッハの「ヴィオラ・ダ・ガンバソナタ」も、千鶴は未乃梨に腕を取られたまま舞台から離れた位置でしか聴くことが出来ない。

 あの端正で折り目正しい運びの音楽の向こうから遊ぶような楽しさが透けて聴こえる智花が弾く音楽を、千鶴は仕切りの反響板越しに、薄められた響きで聴く羽目になってしまっていた。

 舞台袖に戻ってきた波多野が、見かねたように未乃梨にひそめた声を掛ける。

「……どうしたの? ずっと江崎(えざき)さんの腕を引っ張ってるみたいだけど」

「……なんでもない、です」

 未乃梨の口調が、何か言い訳をするでもない少しあやふやなものに変わった。それでも、未乃梨の手から力が抜けて、千鶴の腕からするりと落ちるように離れていく。

 舞台からは、ヴァイオリンのソロでベートーヴェンの「春」のソナタが聴こえてくる。 

 舞台袖には出番の終わった智花(ともか)戻ってきていて、千鶴から少し離れた場所で足元にチェロを寝かせたまま舞台での演奏に耳を傾けつつ、時折千鶴や未乃梨に目を向けている。

 その智花が、「春」の演奏が終わると忍び足で千鶴と未乃梨に近寄ってきた。

凛々子(りりこ)ちゃんのソロが終わったら最後の弦楽合奏だから、トイレとか行くなら今のうちだよ」

「……それじゃ、行ってきます」

 千鶴は、智花の言葉に救われたように、やや早足で舞台袖の外の廊下へと出て行った。


 セシリアホールの手洗いで、千鶴は手をハンドドライヤーで乾かしながら腕に食い込むような未乃梨の手の感触を思い出していた。

(未乃梨、なんで……)

 波多野がコントラバスで弾いていたフルートでよく吹かれる曲らしい「シシリエンヌ」や、智花がチェロで弾いていたバッハのソナタを、未乃梨は間近で聴かせまいとしていたかのように千鶴の腕を引いていた。

(凛々子さんのオーケストラの演奏会だって一緒に聴きに行ったぐらいなのに、どうして――)

 手を乾かし終わった千鶴が洗面台の鏡を見ると、明るめの色の長いストレートの髪にグレーのジャケットとパンツの少女が鏡の中から声を掛けてきた。

「千鶴ちゃん、お疲れ様。『オンブラ・マイ・フ』、良かったよ」

真琴(まこと)さん。ありがとうございます」

 千鶴は後ろに向き直ると、真琴に頭を下げる。

 真琴は、どこか真面目な顔で千鶴に尋ねてきた。

「コントラバスを聴いてるっていうより、歌手さんみたいだった。しっかり歌えてたよ」

「歌手みたい……ですか?」

 千鶴は、真琴の言葉の意味が汲めず眉をハの字にしそうになる。

「ああ、難しく考えないで。楽器の演奏でとっても大事なことだからね。練習で歌ってから弾いてたでしょ? そういう演奏だった」

 真琴の言葉には、裏のない素朴な賞賛が含まれていた。真琴は続けた。

「ところで千鶴ちゃん、星の宮のオーケストラに来る気はない?」

「えっと……前に、凛々子さんから誘われてて」

 不意を突かれたような顔で返事をする千鶴に、真琴はゆっくりと頷く。

「そうなんだ。じゃ、もうすぐ一緒に演奏することになるかも、ね。私、秋の星の宮の演奏会に出ることになったから」

「それじゃ……凛々子さんだけじゃなくて、真琴さんとも?」

「うん。今日の演奏みたいな千鶴ちゃんのコントラバスの音、オーケストラの中でも聴いてみたいな」

 真琴は、どこまでも裏表のなさそうな真面目さを保ったまま、口角を上げた。


(続く)

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