♯315
発表会の楽屋で千鶴たちが昼休みを過ごす一方で、主催者の吉浦はロビーで真琴と顔を合わせる。真琴が抱いている思いは……。
昼どきになって、楽屋には千鶴や未乃梨たち以外の高校生以上の女性の出演者が集まってきていた。
カツサンドをぱくつきながら、千鶴は発表会のプログラムに目を落とす。
「私たち、出番は真ん中あたりなんですね」
「そうだね。中低弦のトップバッター、頼んだよ?」
波多野が自分のエッグフライサンドと千鶴のカツサンドを交換しながら、プログラムを覗く。
千鶴や波多野や智花といったヴァイオリン以外の弦楽器の出演者は、レッスンを始めて間もない小学生や中学生の出演者の出番の後らしい。
ヴィオラやチェロやコントラバスの出演者は休憩を挟んでプログラム後半の最初の方に出番を固められていて、その後に凛々子他のレッスンが高度な段階に進んでいる出演者のソロが続く、という構成になっていた。
未乃梨は、伴奏者らしい楽屋に入ってくる大学生ぐらいの出演者たちを見回しながら、思わず智花に尋ねる。
「フルートとかピアノの発表会は出たことありますけど、弦楽器の発表会って色んな楽器の人が出るんですね?」
「というか、主催の吉浦先生の方針かな。オーケストラの指導もされてるし、色んな楽器を聴いて勉強してほしい、って感じかな。コンミス殿はどう思う?」
トマトサンドをペットボトルのお茶で流し込むと、凛々子は自分の手元のプログラムに目を落とす。
「そうね、ヴァイオリンからコントラバスまで揃う発表会は珍しいかもしれないわ。しかもプログラムの最後が弦楽合奏、っていうのもね」
未乃梨はプログラムのページの最下段を見た。合奏の曲の前の、ソロの中で一番最後に「仙道凛々子」という名前と、その後に記された「ブラームス作曲:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品七十七より第三楽章」という曲目に未乃梨は何となく身がすくみそうになる。
「協奏曲、って……これ、本当はピアノじゃなくてオーケストラが伴奏するやつじゃあ?」
交換したエッグフライサンドを食べ終えた千鶴が、ペットボトルのお茶を飲みながら小首を傾げる。
「凛々子さん、そんな凄い曲を習ってるんですか?」
「そうでもないわ。レッスンが進んだら、いつかはそういう大掛かりな作品も勉強するのよ。フルートだって、勉強が進んだらモーツァルトの協奏曲は取り組むでしょう?」
事も無げに答えると、凛々子は未乃梨に笑みかける。その穏やかな表情に、未乃梨はかえって不敵さを覚えた。
「……そういう出番の前なのに、ずいぶん落ち着いてるんですね?」
「油断してるつもりはないけれど、お客様を退屈にはさせないつもりよ。それに、今日の曲は受験で必要だしね」
智花が「そいつはまた」と凛々子の顔を見た。
「大学受験でブラームスの協奏曲とは渋いねえ。大抵メンデルスゾーンとかのだったりするのに」
「受験? 入試でヴァイオリンを弾くって……」
今度は、千鶴が首を傾げる。波多野が横から千鶴に補足をした。
「音大の受験だよ、音楽大学。音大とか教育学部の音楽科の入試って演奏の実技がいるんだよ」
「凛々子さん、やっぱりそっちの進路なんですね?」
「音大に入ったからといってプロの演奏家になれる訳ではないけれど、ね。それでも、私が将来したいことのステップには違いないわ」
凛々子は、驚きが隠せない千鶴に、穏やかに笑みかけてから腕時計を見た。
「そろそろ前半のプログラムが始まるし、私たちも準備しなきゃね。千鶴さん、後半の最初ではなかったかしら?」
「いっけない。もう、着替えなきゃ」
「あ、千鶴、待って。私も」
ガーメントバッグを手に立ち上がった千鶴に続いて、未乃梨も楽屋の奥に並ぶ更衣ブースのカーテンの向こうに入っていった。
セシリアホールのロビーで、真琴は白髪の混じった長い髪を引っ詰めたやや年配の女性を見つけると、姿勢を正して挨拶に出向いた。
「吉浦先生。お久し振りです」
「いいえ。今度の星の宮ユースの演奏会、賛助を引き受けてくれてありがとう。……私としては、ヴァイオリンで出てほしかったけれど」
「ヴァイオリンで出たら、凛々子に睨まれてしまいそうなので。それに、ヴィオラで勉強したいこともありますから」
吉浦は、自分より顔半分ほど高い真琴の顔を見上げる。
「あなたほどのヴァイオリンの腕なら、それ一本でやっていけるでしょうに。小学校からコンクールで沢山の受賞歴があるあなたがねえ」
真琴は、頭を掻くように明るめの色の背中まである長い髪に手をやった。
「ソロなら凛々子に負けないかもしれませんけど、アンサンブルのことは私は素人も同然ですし。それに」
「それに? 他に何か?」
興味深そうに尋ねてくる吉浦に、真琴ははっきりと答える。
「もしかしたら、凛々子が興味を持ってる子をステージのすぐ近くで見られるかもしれないって思いましてね。ほら、あのコントラバスの」
「江崎さん? 確かに、背もあなたどころか男の子より高いし、四月から始めたにしてはなかなか悪くない音を持っているけれど。……もう、小さな頃から、仙道さんへの対抗心は相変わらずね?」
目の前の、千鶴には届かないまでも十分に背の高い、薄手のグレーのジャケットとパンツを着けた姿の少女を、吉浦はいたずらの絶えない子供を見るような目で微笑んだ。
(続く)




