♯313
思っていた以上に改善の見られる千鶴のコントラバスを内心で賞賛する智花。
その千鶴を舞台袖から見守る未乃梨は、思いがけない相手と再会して……。
発表会のプログラムで最後に置かれている、出演者有志による弦楽合奏のリハーサルで、智花はチェロを弾きながらある種の違和感に耳をそばだてた。
(低音の両方に初心者がいると、特に人数が少ない合奏の時はやりづらかったりするもんだけど……今日はコンバスに限っては心配は無用、ってのが意外かな)
チェロパートの真後ろに陣取る巨大な弦楽器を弾いている二人の音は、ヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番の最初の音から危なげがない。
(最初の合奏練習で吉浦先生に指摘されてたバランスや弾き方のことは昨日と今日で千鶴ちゃんなりに改善できてる……こうなると、後ろのボクちゃんにももっと頑張ってほしいところだけど)
智花や吉浦の後ろでチェロを弾いている少年の音は、技術はともかく萎縮しているのか音量がどうにも乏しい。智花は内心で苦笑せざるを得なかった。
(すぐ後ろであれだけ鳴らせるコンバスが二人もいたら、いくら男の子でも身体が出来てなけりゃ音量で太刀打ちするのも難しいよね。……しかも、コンバスの片方は大人の男性に混じっても高く見える身長だしね)
ヴィヴァルディの最後の楽章の終止符まで、智花は寄せ集めのメンバーの弦楽合奏にしては随分と快適にチェロを弾ききった。
上手側の舞台袖で、未乃梨は息を飲んで弦楽合奏のリハーサルを見守っていた。
(千鶴、この前の練習より、もしかすると昨日の練習よりも、いい演奏をしてる。……ちょっと指導があっただけで、あんなに前以上に周りにはまる音になるなんて)
千鶴の音は、時折どこか不器用に弓が弦を軋ませてノイズが入ってしまうことがあっても、不用意に大きな音を立てて全体のバランスを崩したり、曲調にそぐわない重い発音で他のパートの表現を損ねたりということは千鶴なりに避けている。
未乃梨は、舞台下手側に集まって座っているヴァイオリンパートの先頭にいる凛々子に目を向けた。
(……あんな弾き方が出来るようになったのも、やっぱり凛々子さんが側にいるから?)
客席に近い第一ヴァイオリンの先頭に座る凛々子は、先ほど通しが終わったヴィヴァルディでも、今演奏しているチャイコフスキーの「ワルツ」でも舞台上手側に固まっている低音からすぐ隣の第二ヴァイオリンまで、合奏全体に目を配りながらアンサンブルをまとめている。
その凛々子が、舞台の上手側の奥にヴァイオリンを弾きながら顔を向けるたびに、未乃梨は胸を締め付けられるような思いに襲われた。
(凛々子さん、また千鶴を見てるの……?)
襟元を思わず押さえた未乃梨の傍らに、グレーのジャケットにパンツのどこかで見覚えがある姿が忍び足で近寄ってきた。
「今日のチャイコフスキー、踊れそうだね」
その、ジャケットにパンツの色味の明るいロングヘアの少女に見覚えがあって、未乃梨は顔を上げる。千鶴ほどではないものの、高校生ぐらいの女子にしては明らかに高い背丈のその少女に、未乃梨は目を見開いた。
「……真琴さん? どうしてここに?」
「今日の発表会、予定が空いたからちょっと様子を見にね。そしたら、凛々子に見つかっちゃってさ」
「……凛々子さんと、知り合いなんですか?」
悪びれない真琴に、未乃梨は驚いてその顔を見た。
「もしかして、凛々子さんのオーケストラに入ってたり?」
「あー、やりたかったんだけどなかなか弾かせてもらえなくてさ。でも、次の演奏会は混ぜてもらえることになったんだけどね。ヴァイオリンじゃなくてヴィオラだけど」
真琴は袖からチャイコフスキーの「ワルツ」を演奏している発表会の出演者たちを覗いた。その視線の先に、第一ヴァイオリンの先頭の席に座る凛々子の姿がある。ワインレッドのロングスカートに同じ色のトップスを合わせて、上からクリーム色のカーディガンを羽織った姿は、高校生にしては大人っぽい凛々子ならではの服装だ。
「しっかし、今日の凛々子、あのスカートからしてちょっと気合い入ってるね」
「……やっぱり、ですか」
未乃梨は今日着てきた暗い青のジャンパースカートに目を落として、そのまま俯いてしまいそうになる。その未乃梨の肩を、真琴がそっと触れるように叩いた。
「今日の未乃梨ちゃん、可愛いよ? そのジャンスカ、あたしの身長じゃ似合わないもの」
励ますような口調の真琴は、未乃梨に笑ってみせると視線を舞台にいる凛々子に戻した。そのどこか特別なものを見るような表情には、未乃梨にも心当たりがある。
「あの、もしかして、真琴さんって」
「……そう、だよ。……同じヴァイオリンの先生に習い出した頃から、ずっとね」
真琴は明るい色のストレートの長い髪に手をやった。
「ただ、あの子は私じゃなくてコントラバスを弾いてる背の高い子に御執心みたいだけどね。未乃梨ちゃんの想い人に」
「ワルツ」の美しく揺らぐ三拍子を支える千鶴を、真琴は眩しそうに見ている。
「……ああいう子を凛々子が求めてるなんて、私も思わなかったなあ」
舞台の上で演奏している「ワルツ」に合わせて心地良さそうに身体を微かに揺らす真琴に、未乃梨は何もかけるべき言葉が見つからず、優美なチャイコフスキーの旋律を聴きながら床に目を落とした。
(続く)




