♯312
発表会の会場のセシリアホールに現れた真琴に、素っ気ない態度を取る凛々子。
千鶴の演奏を聴いた真琴は、彼女に興味があるようで。
セシリアホールの下手側の舞台袖でソロのリハーサルを聴いていた凛々子は、コントラバスを抱えて上手側から舞台を出ていく千鶴とその後ろに従う未乃梨をじっと見ていた。
(まずまず、といったところかしら。大きなミスもなかったし。……あんなに通る音が出ていたのはちょっと驚いたけど)
「お邪魔しまーす。千鶴ちゃん、いい感じじゃん」
安堵した凛々子の視界の端に、明るめの色のストレートの長い髪が入り込んだ。思わず、凛々子は右眉だけをしかめてみせる。
「真琴。あなた、随分お暇なようね?」
声に棘を数本ほど含ませる凛々子に、真琴はくすくすと笑う。
「怖い顔しないでよ。せっかくの美人が台無しじゃない?」
「ホールの裏までよく入ってこられたわね? 関係者以外立ち入り禁止のはずだけど」
「出演者の関係者です、って言ったら通してくれたよ? 発表会ってそういうもんだし」
とぼける真琴の服装は、出演者の家族か付き添いでもおかしくなさそうなグレーの薄手のジャケットに同じ色の細身のパンツで、一応フォーマルに見えなくもない。
凛々子はますます怪訝な顔をした。
「ふざけた理由を思い付いたものね。関係者って、一体誰のかしら」
「何人かいるよ。凛々子と、千鶴ちゃんと、未乃梨ちゃん。君とは秋の演奏会で一緒に弾くことになったから、挨拶しとかなきゃと思ってね」
「秋の演奏会? まさか」
自分の顔を見上げる凛々子に、真琴はにやりと口角を上げる。
「実は、多口先生経由で今度の星の宮ユースオーケストラの演奏会に賛助で出られないかってお誘いがあってね。ヴィオラ、足りてないんだっけ?」
「……全く。千鶴さんとか未乃梨さんは夏休みにたまたまプールで出くわしただけでしょう?」
「まあね。千鶴ちゃんが発表会に誘われたって聞いたから来てみたけど、良い音してるんだね、彼女」
千鶴と未乃梨が去ったあとで別の出演者のリハーサルが始まった舞台を見ながら、真琴は軽く腕を組む。
「ああいうコントラバス奏者、星の宮に欲しいんじゃない? コンサートミストレスさんとしては」
「いけないかしら? ここまで上達するとは思ってなかったけれど」
「私のヴィオラもそれぐらい期待しててよ? 始めたばっかりだけど」
「どうせ、ヴァイオリンそっちのけでヴィオラばかり弾いてたんでしょう? 小学生の頃から私に絡んでくるわよね、あなた」
凛々子の鋭さを増した視線をいなしながら、真琴は感じだけは良さそうな笑みを浮かべる。
「もし、千鶴ちゃんが星の宮に入るんなら、今度の演奏会、楽しみがもうひとつ増えそうだね。知ってるプロの先生も何人か来るみたいだし」
「あなたのことはともかく、千鶴さんは責任を持って私が教えるから、心配してもらわなくても結構よ」
「もう、冷たいんだから。そうそう、今日、ブラームス弾くんだっけ? 楽しみにしてるよ」
「ありがとう、とだけ言っておくわ。さ、部外者は今日は客席で大人しくしててちょうだい」
「……はいはい」
凛々子に背中を押されて、真琴は舞台袖から客席の外の通路に連れ出されていった。
ソロのリハーサルが一通り終わって休憩に入ると、ロビーに出た千鶴と未乃梨は自販機の前で談笑しているチェロの智花やコントラバスの波多野と顔を合わせた。
「おー、千鶴ちゃんに未乃梨ちゃん、お疲れ様」
小さめのペットボトルのカフェオレを口に運んでいた智花が、二人を見つけて手を振ってきた。
「智花さん、楽器の借り出しありがとうございます。波多野さんも、お疲れ様です」
頭を下げる千鶴に、波多野が会釈を返す。
「江崎さん、リハの『オンブラ・マイ・フ』、良かったですよ。綺麗に歌えてたし、吉浦先生も褒めてました。ただ」
言葉を区切った波多野に、千鶴は未乃梨と顔を見合わせた。
「……未乃梨、さっきの私、やっぱり何かおかしかったのかな?」
「……私はそうは思わなかったけど、客席からだとどうだったんだろう?」
波多野は自販機で買ったらしい冷たいジャスミンティーを千鶴に手渡す。
「はいこれ。しっかりリラックスしてね。吉浦先生が、江崎さんが集中し過ぎてるからしっかり切り替えさせてあげて、って」
千鶴はジャスミンティーのペットボトルを受け取りながら、リハーサル中に感じた奇妙なことを思い出した。
(あれ? 時間がゆっくり動いてるように思えたの、良くないことだったの?)
「千鶴、そうだったの? いつもと何か違うって思ってたけど」
驚く未乃梨に、智花が頷いた。
「千鶴ちゃん、リハで私とか波多野さんが先に弾いてたの記憶にないでしょ? 集中するのはいいけど、集中のしすぎも余計な疲労につながっちゃうから、気をつけなね」
「あ、はい。……頂きます」
千鶴は波多野から受け取ったジャスミンティーをひと口飲んだ。砂糖が入っていないはずの飲み物が、香りのせいか不思議に甘く感じる。
思わずペットボトルのラベルを見直す千鶴と、ロビーの壁の時計を波多野が等分に見回した。
「それじゃ、あと二十分ぐらいで合奏のリハだし、しばらくだらけますか」
「オケの本番と違って時間がタイトじゃないもんね。私も飲み物おかわりしよっと」
どこまでも気楽な様子の波多野と智花に、千鶴は飲みかけのジャスミンティーを手にしたまま何度も瞬きをした。
(続く)




