♯310
発表会の練習の後、さして変わった様子のない未乃梨が少しだけ気がかりになってしまう千鶴。
千鶴と未乃梨の関係は、上級生たちからも少しだけ目を引くようで……?
朝の音楽室の練習では、千鶴から見た未乃梨の様子は特に変わったところはなかった。
それどころか、未乃梨は駅で千鶴に会ってすぐ、真っ先に頭を下げてきたのだった。
「千鶴、発表会の練習、急に帰っちゃってごめん!」
「あ……その、急だったから私も凛々子さんもちょっと驚いちゃったけど……メッセージで送った予定とか、届いた?」
「大丈夫。ばっちり読んだから、心配しないで」
そう言って千鶴の顔を見上げる未乃梨の表情は、いつも通りに明るい。
電車を降りると、未乃梨は千鶴の手を引いた。
「千鶴、行こ。音楽室のピアノ、空いてないかもだし」
急ぎ足で校舎へと向かう未乃梨を、千鶴は安堵はしつつもどこか心配心配せざるを得なかった。
(未乃梨、何か無理してたりとか、しないよね?)
朝の練習時間で未乃梨のピアノと「オンブラ・マイ・フ」を合わせているときも、教室に戻ってからも、千鶴は自分の前で明るく振る舞う未乃梨が、どうしても気にかかってしまうのだった。
その日の部活が終わったあと、未乃梨は音楽室にコントラバスを返しに来た千鶴についてきた凛々子の姿を見て、一瞬だけ能面のように表情が消えた。すぐに、未乃梨は音楽室の戸口にいる凛々子に近寄っていく。
「凛々子さん。前の発表会の練習、いきなり帰っちゃってすみません」
頭を下げる未乃梨に、凛々子も気を使わせないようにつとめて明るく話す。
「大丈夫よ。千鶴さんから今後の予定は聞いてるわね?」
「はい。土曜日にまた合奏練習があって、日曜日に本番、ですよね」
「ええ。未乃梨さん、ピアノの発表会とかは出たことあるのよね? 本番当日はあんな感じだと思ってくれていいわ」
コントラバスを倉庫に戻してきた千鶴が、音楽室の戸口に戻ってきた。
「未乃梨、当日は宜しくね。そういえば、未乃梨って当日は衣装どうするの? 私は前に買ったブラウスとスカートだけど」
「あまりカジュアルじゃなければ大丈夫なんでしょ? じゃ、私もブラウスに黒のスカートかなあ」
凛々子も、未乃梨に頷く。
「千鶴さんに合わせれば大丈夫よ。未乃梨さんは伴奏者だし、あまり目立ち過ぎなければいいわ」
「凛々子さんは、発表会の本番は何を着るんですか?」
「こういうので出るつもりよ」
未乃梨に問われて、凛々子はスマホの画像を出した。そこには黒いノースリーブのシンプルなワンピースを身に着けて、どこかのステージの上でヴァイオリンを弾く凛々子が写っている。
「女の子だと装飾のついたドレスで出る子もいるけど、私はシンプルな格好の方がいいかな。このワンピースなら、オーケストラの演奏会でも着られるしね」
凛々子の画像に、千鶴は安心したように息をついた。
「よかった。ふわふわのお姫様みたいなドレスで出なきゃいけないのかなとか思っちゃいました」
「吉浦先生も、あまり華美な衣装は着ないようにっておっしゃってたし、気にしなくて良いわよ。千鶴さんのドレス姿はちょっと見てみたいかもしれないけど」
いたずらっぽく片目をつむる凛々子に、未乃梨が眉を吊り上げた。
「ちょっと! 凛々子さん、千鶴で変な妄想しないで下さい! ダメです、千鶴にドレスなんか!」
「あら、未乃梨さんなら千鶴さんに何を着てほしいの?」
凛々子が顔色ひとつ変えずに切り返すと、未乃梨は急にしどろもどろになって返答に窮した。
「それは、その、やっぱりカッコいいスーツとか、タキシードとか……」
「未乃梨さん、千鶴さんに男装させたいの? 確かに似合いそうではあるけど」
「……あのー、二人とも、ここだと他の部員から変に注目浴びちゃうし、そろそろ昇降口に行きません……?」
居心地の悪そうな千鶴の声に、凛々子は目をやや丸くして、未乃梨は音楽室の中から向けられている視線に顔を赤くした。
「すっかりお邪魔してしまったわね。そろそろ失礼しましょうか」
「……もう、変なことを言い出す凛々子さんが悪いんですからね?」
「ほら、もう行きましょう」
まるで動じていない凛々子と、恥ずかしそうな未乃梨の背中を押すように、千鶴は音楽室の戸口から離れていった。
部活の終わり際に千鶴や未乃梨や凛々子に好奇の目を向けていた部員たちの後ろで、高森は自分のアルトサックスを仕舞いながら苦笑していた。
「やれやれ。……小阪さん、先が思いやられるねえ」
ぼやく高森に、植村がピアノの上の楽譜を片付けながら肩をすくめる。
「この賭け、私が勝てそうかな?」
「どうかねえ。今度の発表会、小阪さんが江崎さんの伴奏をやるみたいだし、それで進展ありそうなもんだけど?」
高森が笑って返すと、植村は千鶴たち三人が去った後の音楽室の戸口を見た。
「その江崎さんの練習を見てるのが仙道さん、なんだもんねえ。あんな美人が身近にいたら、小阪さんも気が気じゃないだろうなあ」
「ま、文化祭でいい感じになれるようせいぜいアシストさせてもらうよ。……さて、あの三人、どうなるんだろうね」
高森は、アルトサックスのケースの蓋を閉じると、植村に形だけ嘆息してみせた。
(続く)




